calendar_viewer 元村正信の美術折々/2016-07

2016/7/27 (水)

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美術折々_62

勝つか負けるかではない生き方、というものの困難さ

毎週日曜夕方の人気テレビアニメ『サザエさん』のエンディングにある「じゃんけん」コーナー。
いつも最後まで見ながら「対戦」している人もいるのだろう。

遅まきながら最近、ネット上に『サザエさんじゃんけん研究所』というものがあるのを知った。
あるシステムエンジニアが仲間と始め、1991年以来なんと25年間に渡って過去データを分析しつつ、
そこで次週の「勝つ手」を予想してきたというものらしい。

世の中にはこのような楽しみを持つ真摯な大人がいるのである。ちなみに昨年の勝率は78%という。
この勝率が高いのか低いのかは分らない。きっとそこにはそれなりの醍醐味や悦びもあるのだと思う。

話しは飛ぶが、「芸術」に勝ち敗けはないとよく言われる。芸術は勝負の世界ではない、というあれだ。
感覚の世界だから優劣、質の高低はあっても「勝敗」はないのか。僕が思うに、芸術の世界はじつは見えない
勝敗に満ちているのだ。すぐれた作品と、そうでないもの。この二極間に広がる無限の格差のグラデーション。
芸術ほど差別の視線と構造を内在させているものは他にないのではないか。

「感覚世界」というものは、私たちが思うほど無邪気ではないのだ。むしろ狡猾な生き物の住まう処なのだ。
だからこそ、なおさら「芸術」は自らがこの見えにくい無限の〈勝敗〉を、根底的に否定せねばならない
のではないか。知らずしらずのうちに、例えば「現代の日本を代表する作家のひとり」などという選ばれ方、
呼ばれ方がある。

なぜこのような言い方が、当然のように流布しまた認知されているのだろうか。そこにはやはり、芸術という
見えない勝負の世界の選別の結末が、厳然としてあるのだと教えてくれる。じつは何をもって「芸術」とし、
それを個々に優れた作品、仕事とするのかは、「芸術」とは何かという問いに答えることと同じように難しい
ことだ。芸術の評価が既存の、既知のものを対象にして成される限り、広く知られることのない、あるいは
これから生まれるかもしれない未知の「芸術」は、そこには含まれていないことになる。

「勝敗」というものが、白黒をつけるという二者の、そしてそれを頂点にひろがる多数者たちによる競争の結末であるなら「芸術」は、勝敗なき世界なのではなく、見えない勝敗を根底から批判し否定することによって、その時初めて「芸術」に成り得るかもしれないという世界、であることを忘れないでおきたいと、僕はいつも思っている。

2016/7/13 (水)

元村正信の美術折々
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美術折々_61

若い二人の才能

先日、九州産業大学芸術学部写真映像学科 百瀬ゼミの学生たちによる写真展
「いち展」を見てきた。(福岡市美術館市民ギャラリーC 、7月10日終了) 

いち展の「いち」は、各自渾身の一点、自信の一枚ということらしい。

若い人たちの作品を見ていつも思うのは、才能というのはどんな時代でも次々と芽吹き続けるということだ。
ただ、この「才能」というものを保証するものは何もない。才能とはなにも名を成すだけが才能ではない。
ほとんど誰からも見向きもされずに、それでもその才能を貫き通す作家も稀にではあるがいる。その一方で、
たいした才能もないのに大作家と呼ばれている人もいるのだ。

そういった才能の多くもいつしか人知れず消え去るのも常である。それでもそんな矛盾の始まりに立ち、
まずはその才能を感じさせてくれた二人の若い作家をここで少しだけ紹介しておきたい。

まず愼容祥の『another door』。
古びた一軒家の軒先にズラリと横並びに置かれた清涼飲料水の自動販売機の数々をとらえた写真。
作家は、夜の町に眠ることなく煌々と光を放つ、この人工の色彩世界に惹かれ続ける。
日本の現在ではありふれた風景が、〈異様な光景〉となって光り輝いていることへ、彼の眼は向けられて
いるようだ。
作品に添えられたコメントを引いておこう。
「あれは別の世界とつながるもう一つの扉であるのかもしれない。
 私は自動販売機が放つ光を見て、そう思った」。

そしてもう一人。幸喜ひかりの『grow』。
天地三分の一ほどの画面下方に、左右一杯に広がる畑のような植物の群れから手首が折れ曲がった一本の細い
腕が真っ直ぐ突き出ているだけのモノクロームの写真。かつてならこれをシュールな光景、と言ったのかも
知れない。だがもう「超現実」など、どこにも有りはしない。すでに現実は「何か」から超えられてしまって
いる。それが私たち日常なのだ。彼女の皮膚感覚も、おそらくそのことにひりひりと触れているに違いない。
作品に添えられたコメントは、
「意識のはじまりなど覚えているわけもなく、体に流れているものが私を証明するでもなく、
 空気と肌の境目も曖昧なまま、ただそこに存在する」。

2016/7/1 (金)

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美術折々_60

ある飛躍の、かたち

先月24日(金)の陸上日本選手権。ハンマー投げの室伏広治が事実上の「引退を表明」した。41歳。
ハンマー投げの選手としての長年の活躍や戦績は、すでによく知られる通りだ。

翌25日(土)の新聞各紙とも彼の記事を大きく掲載していた。その中で目にとまったのが、朝日新聞朝刊
スポーツ面。室伏広治は自らの競技人生を振り返りながら、同じハンマー投げの名選手であった父・重信の
競技への姿勢を見てきた影響が大きい、とした上で次のように語った。 

 「父は肉体を超えて何かをつかもうとしていた。それがスポーツで一番美しい瞬間だと思う」と。

室伏広治にとって、室伏重信は父でありながら師でもあった。つまり、ずっと鏡像関係にあったということだ。
おそらく彼は、「父=師」というものを通して、ある核心をつかんでいたように僕には思える。

「肉体を超えて何かをつかもうと」することとは何なのか。肉体を使うスポーツ自身が、肉体を超えるとは
どういうことか。

どんなスポーツにとっても〈肉体〉は、自己と離れた別の次元にあるわけではなく、同じ平面上にある。
なぜ、肉体を超えなければならないのか。というより肉体の〈彼方〉に、もしかすると肉体にとどまらない
〈領域〉、すなわち室伏の言葉でいえば 「美しい瞬間」というものがあるということになる。

一般によくいわれるのは、アスリートたちが見せてくれる競技の、躍動する肉体の、スポーツが持つ鍛えられた「美しさ」であろう。しかしこの室伏父子にとっての 〈美しい瞬間〉というのは、それとはちがう。
突きつめれば 〈不可視〉の瞬間なのではないか。

「肉体を超える」とは、肉体を捨て去ることでも、肉体を脱することでもないだろう。
自らが肉体でありながら、肉体を持ちながら、肉体ではない、肉体を離れる一瞬の〈不可視の領域〉。
そういう反立的な瞬間あるいは次元を、「つかもうと」すること。

なぜ僕は、このような遠回りをして、いや室伏広治が自らの引き際に語ってくれた、すぐれた「核心」に
触れようとしたのか。それはやはり、ここに帰着するからだ。

「美術」を手放すことなく、「美術」を超え出ていく、というありよう。超え出てもなお 「美術」を手放す
ことなく問い続けること。「芸術」とは自己を超え出ていく意志であるなら、「美術」もまた、室伏父子が
見据えていた射程、すなわち自らを「超えて何かをつかもうと」する、 〈不可視の瞬間〉を見ようとする意志
に違いないのだ。

もしかしたら「美術」には、室伏の言うスポーツのような「美しい瞬間」はついに訪れないのかも知れない。
だがそれは「美」としてではなく、「美に抵抗するもの」をつかむために自らが飛躍することは、できるのではないだろうか。