calendar_viewer 元村正信の美術折々/2015-11

2015/11/25 (水)

……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_27
 

27年振りの「九州派展」

現在、福岡市美術館で開催中の「九州派展」。

企画展示室・小作品展示室・日本画工芸室の3室をつかって同館収蔵品を中心に66点、それに写真・印刷物等の
関連資料約60点程も合わせて展示している。1988年に同館によって企画された初の九州派回顧展「九州派_反芸術プロジェクト」には規模、内容ともに及ばず、必ずしも「全貌に迫る」という訳にはいかないが九州派というものをまったく知らない世代へ向けての、ある程度まとまった紹介となっているのではないだろうか。

今回の企画展がそもそも『九州派資料集』の刊行という主目的から派生した展示だとするなら、この部厚い資料集を加えた上で、1988年以後、27年間にわたる福岡市美術館の、九州派研究の深まりとその成果が問われる展覧会と、位置付けてよいだろう。

さて冒頭から、九州派展、九州派と、以下何度も繰り返しているが、とくに若い世代には初めて聞くという人も少なくないと思われるので、「九州派」とは一体どんなものなのか、少しは触れておこう。

おおざっぱにいうと、近代という日本の美術史の中では、いまから60年程まえに前後して国内各地で起こった、いわゆる〈前衛美術〉運動のひとつとしての(もちろん運動であったかどうか、運動でないものも含めての再考はいるが)、ここ北部九州の福岡市を拠点に活動した、芸術家志望の若者たちの美術集団が「九州派」であったと位置づけられている。
メンバーのひとり、山内重太郎によれば、「いままで前衛を持たなかった九州に、それこそほんものの前衛を打ちたてたい」(『芸林』1958年7月号)という、大いなる野望もあったようだ。

「九州派」については改めて別の機会があれば、僕なりの否定、批判、評価も含め書いてみたいと思っている。
ただ、ひとつここで言っておきたいのは、ほんらい既成の美術団体展(独立や二科といった)に出品することで画家を志していた多くは独学の若者たちが、必ずしも最初から〈前衛〉いわゆるアヴァンギャルドを志向していた訳ではないこと。

つまり団体展的絵画、既成の「芸術」を志向していた若者たちが、一端落ちこぼれたことで逆に、その時代の、美術の奔流に身を投げ、巻き込まれた結果、思いもかけず『反芸術』の当事者としてその痕跡を日本の60年代の前衛美術運動、美術史のひとつに名を残してしまった、というのが実相ではないかと、僕は理解している。
もちろんそれ以後の、個々の作家の歩みと評価はまた別のことだが。

ここで、見過ごしてならないのは、作家にとって「絵が描けない」ということは、必要条件ではないということだ。九州派の多くもまた例外ではなかったと言ってよい。そのことは、当時の他の反芸術といわれた集団や、その後の「現代美術」そして現在の「アート」にも、作家の成功にとっては逆に作用している場合も多いにありうるのだ。

誤解をおそれずに言えば、うまく「絵が描けない」集団が、どんな絵画もゴミでさえも、同時に「作品」になりうる一方で、作品は自壊、崩壊するかのように「拒絶」されもした。敗戦からの復興という熱と、戦後の歪みとの矛盾に裂かれるような「背反の時代」に生きていた彼らの悦びと悲哀を、僕はつよくおもう。

今のように、どんな作品でも肯定的に受けとめられ、全てがなんでも「アート」でありえるような時代を、九州派にかかわった若者たちは、いまならどんな感慨をもつだろうか。

今回、「九州派展」会場の三つの室をひとり何度も巡りながら僕は、みずからも晩年まで九州派を批判的に顧み続けていた山内重太郎が、かつて夢想したであろう「ほんものの前衛」というものを、私たちは一体、どこに見つけることが出来るのだろう、と思うのだった。

あるかなきかの「前衛」に踊り、一身を賭けた者たちの若き痕跡が、少し照れくさそうに、こちらを見ている気がする。

                                    (同展は来年1月17日迄)     

2015/11/13 (金)

……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_26
 

いまは亡き、F O U J I T A

様々なメディアがにぎにぎしく特集を組んだ「戦後70年」も、あと2カ月を残すところとなった。次の「戦後
80年」までの10年の谷間を、私たちはまたいつもと同じように、欺瞞と忘却の日々にいそしむのだろうか。

いま、東京国立近代美術館で、12月13日まで同館所蔵の「MOMATコレクション」展の中で、26点からなる
「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」が開催されている。中でもその半数を占める14点の、いわゆる「戦争画」の一挙展示は、はたして70年間という「時間」が赦したものなのか。

その戦争画の〈頂き〉とも評される藤田嗣治の《アッツ島玉砕》(1943年)。画集等で見たことのある方も
多いだろう。

画家の野見山暁治は、自らのエッセイ集『四百字のデッサン』(河出文庫)の冒頭、「戦争画とその後-藤田嗣治」でこう振り返っている。すこし抜き書きしてみよう。

「今なア、美術館に行って、お賽銭箱に十銭投げるとフジタツグジがお辞儀するぞ。本当だった」
「隣りの美術館でやっている戦争美術展にさっそく行ってみたら、アッツ島玉砕の大画面のわきに筆者の藤田嗣治が直立不動の姿勢でかしこまっていた」
「この大きな絵が出来あがった日のことは、藤田邸に住みこんでいる私の女友だちから詳しく聞いていた」

「戦争がみじめな負け方で終った日、フジタは邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書きいれてあった日本紀元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFOUJITAと書きいれた。先生、どうして、と私の女友だちは訝しがった」

「なに今までは日本人にだけしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。つまりフジタにとって戦争とは、たんにその時代の風俗でしかなかったのかも知れない」

そして敗戦後、〈日本に捨てられ〉、フランスに帰化してのちの F O U J I T A を、野見山暁治は次のように
締め括っている。

「私たちにとってフジタの帰化は、一種のコスモポリタンとしての見事な資格を、人格的に掴みとったように思っていたが、どこの土地の人間でもないただの旅人ではなかったのか。つねにライトに当っていなければ生きてゆけない人生がそこに在るようだ。アッツ島もパリも光りだった」と。 時代の風俗、旅人、そして光り。
なるほどな、と僕も思う。

また野見山は、同じエッセイ中の「戦争画」と題する項で、まだ画学生だった自分たちの言葉として「平和画とか生活画とは言わないのに何だって、これだけ戦争画だけがあるんだ。作意がありすぎるよ」と、素直に記している。

そう、〈作意がありすぎる〉のである。
いわゆる「戦争画」が、ながく「タブー視」され続け「日本美術史の恥部」とまで言われてきたのは、一般に
いう風景画や静物画のようにどっぷりと芸術に漬かった〈絵画〉ではなかったこと。つまり絵画でありながら、戦争という次元を、二重の構造を、避けがたくすべての戦争画は負わされている。国家は、軍は、画家が好むと好まざるに拘わらず彼らじしんにとっての〈絵画という戦争〉を強制し、課したからであろう。戦争の呪縛からの解放というが、そうであるなら、絵画もまた戦争という呪縛から解かれねばなるまい。しかし、ことはそう容易ではない。

「藤田嗣治が引き受けた近代日本の歪み。その問題は今も解決していない」と、映画監督の小栗康平は現在公開中の映画「FOUJITA」に触れてそう語っている。ただ、野見山暁治が、フジタにとって「アッツ島もパリも光りだった」といかにも画家らしく捉えなおした時、そこには「歪み」というよりも、むしろ絵画と戦争は、なんのブレもなくぴったりと重なり合っていたとはいえないか。

1943年、《アッツ島玉砕》初公開時。賽銭箱と作品のわきで何度も何度もお辞儀をし、直立不動の姿勢で、
かしこまっていた晒しもののような画家、藤田嗣治がその時一体何を思い、考えていたのか。その心情、胸中も、今となっては知るすべもない。

フジタ。あるいは、終わらない旅、そしてデラシネ。
このことばも、もうとっくに死語かもしれない。だが、私たちの〈戦争〉は一体いつ終わるのだろうか。

2015/11/1 (日)

……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_25
 

ふたりの作家

先日、ひさしぶりの雨の中、須崎公園の福岡県立美術館で開催中の展覧会「紙、やどる形」を見た。
「紙」を素材・テーマとする作品の魅力を探るという(44作家、58点から成る)企画展。

ほとんど予備知識もなく、ただ「紙」という興味にひかれて足を運んだ。
いわゆる工芸から人形、陶芸、デザイナーや美術家まで、作家数も多く幅広いせいか、良くいえば作品はバラエティに富む。

中でも再び感銘を受けたのは、関島寿子の作品。再びというのは、3年前の春、2012年同じ福岡県立美術館の
企画展「糸の先へ」という染織工芸やファィバーワークを中心にした展覧会で、不勉強ながら初めて知った
工芸家で、今回は小品1点のみだが和紙のような紙と植物の繊維を絡ませ、編んだ、奇妙な言い方が許されれば、どこか古代の「書物」のような作品《12葉の冊》だ。

それは関島寿子が20年前に語った、「ぶ厚い壁に囲まれた空間を作る事を私は長く夢みていた」という言葉を、今回の作品に偶然重ねることができた時、僕はこの小品に遥けき大きさを感じていたことに、ひとり納得
させられたのである。そのことは、この作家の長いあいだの思考の誠実さを裏付けているように思われたのだ。

ほかにもう1点、アントラ・アウグスティーノヴィッツアの《Dayspring》という糸と紙で出来た煌めく宝石の
ような、睡蓮の花をも彷彿させる作品に、こころ惹かれた。

(同展は11月23日迄)