calendar_viewer 元村正信の美術折々/2015-05

2015/5/30 (土)

美術折々_12
 

北村ケイ写真展 「arabesque」〜彼等の肉体でいっぱいの〜

幻想、人形、少年、ノスタルジー、そして稲垣足穂、タルコフスキー、ベルメール ……。
もうおわかりだろう。これらはみな、写真家・北村ケイが一途に偏愛してきたものたちである。

それでも不足というなら、澁澤龍彦、バタイユ、フーコー、さらにニーチェまで召喚させてもよい。

熱狂的ファンを持つその濃厚でアンダーグラウンドな、北村ワールド無銭興行 「arabesque」2015 全開中。
またしても、エロスとタナトス、比喩としての水、闇、肉体、緊縛、虚々実々のセクシュアリティー渦巻く、
わたしたち人間の素性が、健全な肉体が、逆説的にせよあらわにされているのだ。
「彼らは新しく、奇妙で、美しい」 と北村はいう。

そんな北村ケイにとって、「写真」とは一体どういうものなのだろう。

僕からみれば、北村ケイの写真は、彼女の体内からほとばしり湧き出てやまない〈幻想綺譚〉さえも、文字通り写し撮るための、冷徹な〈媒体〉のように思える。見る者にとっては、見る者自身の抑圧されたままの無意識や、忘れ去ったままのいびつな夢の錯綜が、あたかも鏡に映し出されたものを見せつけられたような写真とでも言えばいいのだろうか。

ここにあるのは〈美のはかなさ〉ではなく、見分けのつかない性であり、異化され続ける「彼ら」の、性差不明の肉体そのものではないか。暴かれた数々の道徳幻想は、過剰な装飾をまとい、無言の喘ぎ声をあげている。
北村ケイの写真は、写真とはことなる写真。まさにトランスフォトグラフ(異なる写真)と呼べるものなのではないだろうか。あまたの「幻想的写真」あるいは「写真にとっての幻想」とも明らかに違う、執拗につくり込ま
れた〈舞台の上〉に〈写真〉がある。

それでも写真にとっての瞬間は失われてはいない。この幻想。つまり、触れ得ない現実(外的世界)と、写真(内的世界)とのあいだに、北村ケイという奇異な作家が立ち尽くしている、ということを忘れないでおこう。

生の否定へと働く グローバリズムの巨大な力は、世界の隅々までをも、快適さで彩り、快感で縛り、骨の髄
までむさぼり続けようとしてやまない。
ニーチェは言っている 「芸術は、生の否定へのすべての意志に対する無比に卓抜な対抗力にほかならない」。

でっち挙げられた規範や道徳とは最も遠いところに、北村ケイの写真はある。彼女の写真も、この「無比に卓抜な対抗力」のひとつに違いない。その異形の、アンダーグラウンドな作品は、もちろん我らがまぶしき世俗とも
地続きなのである。

それらはまた、縛られ続ける従順なわたしたちの着衣を剥ぎ、あるいは過激に焚き付け、鼓舞しているようにも見えるのだ。
                                    同展は6月7日(日)まで。

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2015/5/17 (日)

美術折々_11
 

末藤夕香 展
 

五月のつよい陽射し。
初夏の心地よい風とともに、目にも鮮やかな新緑溢れる季節の中をぬって、久しぶりにみた末藤夕香の個展は、
そんなまばゆい緑から抜け出てきたような、艶のある何種類もの濃淡の異なる緑の色糸にくるまれた、11個の
「オブジェ」を床や壁に配したものだった。

それらをいま僕は、仮にオブジェとよんでみたのだが、これらの中身は、たぶん椅子や腰掛け、それに木枠や
雑貨のようなレディ・メイド、もしくは手製のものだろうか。つまり多くは既製品を、無数の束ねた糸で被い
包み込むようにしてその「原型」を隠したものだ。

原型を隠すとは、それが持つ本来の機能や用途を一度閉ざすこと。それでも形そのものが歪められているという訳ではない。だから見るものは、糸におおわれた奇妙な「品々」に親しみとも困惑ともつかない感情を抱くことになる。

それは、「家具か小道具にも似た観葉植物」と声にしたくなるものだった。複雑な感触とでもいうものがここ
にはある。一見無造作に配置されたかにも見えるそれらのあいだに、緊張感といったものはない。むしろ誰かの「部屋」にでもいるかのようなある種の安堵感。この「誰か」とは、むろん末藤夕香のことである。もちろん
僕は彼女の部屋のことなど知るよしもないし、また実際の部屋であるはずもない。

時間を少し過去に戻すと、ある時期を境にこの作家は、それまで取り組んできた彫刻作品から〈極私的空間〉へと転出している。これは僕の憶測だが、末藤夕香は自分の〈居場所〉を仮構しながら、自らの他者、世界という外部を、そこに取り込むことで自身の〈傷〉を見つめ直そうとしてきたのではないか、と思うのだ。

もともと彫刻家として出発した初期から用いてきた石膏、樹脂、鉄、木といった素材から、やわらかな布、綿、壁紙や私的アンティークの数々、そして糸にいたるまで。すでに25年が経っていた。
なんどもフランスと福岡を往復しながら、彼女は何を見つめ考えてきたのだろう。

僕は早くからこの作家の、彫刻家としての才能に注目してきたものだ。彫刻から非-彫刻としての極私的空間へといたる展開。近年の作品を見ていると、多分に手芸的でありながらも〈非-手芸としての物〉の可能性、と
でもよんでみたい願望に駆られる。

末藤夕香という作家は、いまも変わらず鼻っ柱がつよいのだろうか。
かつてボルドー郊外の果てしなく続く葡萄畑の中を、愛車プジョーのハンドルを握りしめ、まっすぐに風を切り
猛スピードで疾走していた作家の姿が、いまも重なる。
 
鮮やかな新緑は、なおも作家を励ましてくれることだろう。 われに五月を。
                                                                                       同展は5月24日(日)まで。

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2015/5/5 (火)

美術折々_10
 

「ART」と「アート」は、同じなのだろうか_その(1)

 
日本のカタカナ語彙の中で、この20年間で加速度的に氾濫したと思われるもののひとつに〈アート〉がある。
西欧語の「ART」の翻訳語として、この国では近代以降、それを「美術」あるいは「芸術」と訳し使用して
きた。かつて西欧語の受容翻訳によってこの国は、さまざまな西洋の概念を母語に移殖することによって
〈日本〉という近代を成し遂げてきたと言ってもよいだろう。「ART」と「芸術」の関係もまたしかり。

だが今「アート」という言葉はそんな翻訳語が持っていた概念をも棄て、西洋の「ART」を表音化しただけの
ものになってしまった。意味ではなく音(おん)のみが、口当たりのよいムーディーな響きのみが残り、漠然と一般化してしまったのである。じつは、この〈翻訳語喪失〉の問題は私たちにとって大きいはずなのだが、
ほとんどなし崩し的に「近代」そのものの財産が無化されていると言えないだろうか。負の近代化遺産として。
もちろん、いまさら近代が消失して何がいけないのか、と言うこともできよう。「ART」が「アート」になったのだから、むしろその方が自然ではないか、分りやすいという訳だ。

しかし、〈ART〉を問うことと、〈アート〉を問うことは、同じことではない。なぜなら、ここには文化を異に
する二重の言語があるからだ。いまの世界を牽引するグローバリズムの奔流の中にあって、なおも普遍性を
持ち、それ自体への問いを手放してはいない〈ART〉という概念(もちろん拡張や拡散はあるにしても)と、
わがカタカナの「アート」という気楽で空虚な響きを帯びた言葉とを、改めて比肩してみたくなるのは私ひとりだけだろうか。近代語(日本国語)としての「美術」も「芸術」も放擲したかに見える今。

でもなぜ、そんなことを百も承知で日本の現在の「美術業界」の多くは、都合よく「アート」を標榜し、自らをそう呼んでいるのか。それは日本の、いわゆる「現代美術」の崩壊と無関係ではないと思われる。
いわゆるポスト現代美術の受け皿としての「アート」は、いかにも「現代性」と「市場性」そして「自由」を
合わせ持っているようにも見える。しかも、ここには既存の価値への懐疑、既成概念や制度への抵抗あるいは
否定性を骨抜きにした、グローバリズムのイデオロギーそのものが反映されてはいないだろうか。

僕はその「現代美術」崩壊の分水嶺を、約20年前の1995年頃だとかんがえている一人だ。
ちなみにこの年は、ちょうど100周年を迎えた第46回ヴェネチア・ビエンナーレの年に当たっている。
(興味ある方は歴代の日本代表作家を追ってみれば、日本の「現代美術」の変質と消失の一端を知れるだろう)

また「アート」については、美術評論家の椹木野衣氏が、美術手帖2010年11月号の『後美術論』の第1回連載の冒頭で「非歴史化の進行のなかで強制終了させられる現代美術に代えて、あえて空虚な表音語「アート」を
用いる」と表明している。
(2015年3月に刊行されたその単行本『後美術論』では本という構成上からだろうか冒頭部は省かれている)

その本文ではズバリ「日本語でアートはあらゆるものを指し示す」という。
つまり、なんでもアートということだ。その通りだろう。

それでもさらに「むしろ、歴史や定義の重力から解き放たれた、この「響き」を存分に活用することで、日本語のアートでしか可能にならないような、自由で無方向な文化の運動を思い描くことはできないか」と、野望ともつかぬ希望を語っていた。この1回目前半部には、するどく的確な「アート」理解が散りばめられているので、
いまの空虚な「アート」を肯定するにせよ批判的に考えるにせよ、連載を読まれていない方は参考のために
一度単行本を手に取ってみられてはいかがだろう。

そして、それらを踏まえた上でなお、そのような「アート」ではなく、「自由で無方向な文化」の中ででも
なく、私たちが喪失した「美術」の、「芸術」の、空洞化の真っ只中で〈現代美術以後〉の、これからあろうとする〈未来の美術〉をかんがえ抜いてみたい、見てみたいと、あえて僕は思うのだが。

                                            (つづく)

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