calendar_viewer アートスペース走り書き/2020-03

2020/3/22 (日)

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アートスペース走り書き_05

柴田高志│上田碌碌「うゐの奥山」  [〜3月29日迄]

この一見似ているようで、そうではない二人の作家。

柴田高志は、これまでインク・鉛筆あるいは墨を使ったモノクロームの線画を一貫して追求してきた。
微細で執拗な線描の繰り返しによって生まれる画面は、ひたすら何かを描こうとしているように見えるが、
かと言ってリアルで具体的な形を結ぼうとはしない。
かんたんには余人の追随を許さないほど緻密で気の遠くなるような、こたえのない彼の描線を目で追っているうちに、僕は行き場のないじぶんにふと気づく。

これまで何度も彼の作品を見てきたが、初期からこの方法でのスタイルはほとんど変わってはいない。
見る者は、いったい何に目を凝らし画面に分け入って行くのだろう。
肉体の陰部かそれとも険しい深山の茂みや暗闇なのだろうか。しかしどのように想像を巡らせても
どこへも行き着かないのだ。この世にはない、どこかの何かのようで、それでいてどこまでも奥へは進めない。
ただ上へ下へ横へと濃密な画面が広がっては淡くほつれながら余白へと途切れていく。

彼はいったい何に誘われているのだろう。自らの手が動くままか、
それとも手に先立つものが彼を衝き動かしているのだろうか。
このたとえようのないエロスの繁茂を突き抜けよう。あらゆる衝動を振り切って。
もっと深みへ暗い洞窟の奥へ連れてって、と思うのは僕だけなのだろうか。

そして上田碌碌。
初めて見る作家だ。たとえば黒く鋭い刃物の切っ先に、透かし彫られた鳥の羽のような絵。
あるいは艶やかな魚の体から流れるように伸びる、美しく繊細な尾や鱗の飾りを持つもの。
いやそのどれでもない想像上の生きもののようにも見える。

水彩だろうか、どの絵も抑えられた色彩、金彩とともに、細い輪郭線の金色が悩ましい妖艶さを放っている。
しかしそれらは羽とも鱗とも言えない異形の表面が織りなすだけの、
生きものとはいえないものなのかも知れない。じゅうぶんに装飾的かつ非現実的な仮象それ自体。
あり得ないものが、しかし描かれることによってそこにある。

いまさらだが 描くということ、あるいは描かれたものは、それだけでどこにも〈ありもしないもの〉なのだ。
たとえそれがどんなに超写実的でありまたミニマルな抽象形態であったとしても。

それでも彼女の絵は、そんなありもしないものと、あるものとのあいだに、生まれてくるようにも思える。
もし装飾というものが何かを飾るためのものであるのなら、その意味で彼女の絵は「装飾」ではない。
では、装飾それ自体が「絵」であるなら。
それも艶かしい飾りがそのまま表皮であり表面であり骨格でもあるのなら。
上田碌碌の絵を〈装飾それ自体〉ということができるのではないか。
黒く、あるいは赤く青く、黄金の黄土の、褐色の緑青の、そのような血の通った装飾それ自体。

華美で妖艶で、その羽で暗黒へといざなう〈生きもの〉そして〈ありもしないもの〉たちが、そこにある。


ちなみに今展のタイトル「うゐの奥山」は、この世の無常を道もなく越えにくい深山にたとえた言葉である。
柴田高志と上田碌碌、二人の作家にあっては陰と陽の「無常」というものがより近くに感じられた。

                                          (元村正信)

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2020/3/8 (日)

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アートスペース走り書き_04

内野ゆきな写真展「見上げると 水面は 凪いでいる」  [〜3月15日迄]

今はもうない福岡市東区の雁ノ巣飛行場の格納庫をその内部から撮ったこの一点。
すでにこの時ですら、じゅうぶん廃墟の佇まいだ。たぶん30年くらい前だろうか。

これはその頃の古いネガから今回プリントし直したらしい。
そこにあるのは「記録」とも「記憶」だともいえない半端な意識と置き去りにしたままの時間である。
だとするなら、そこにはまだ若かった彼女自身がそのあいだにいたのだという
現在からの告白になっているのかも知れない。

海も近いその格納庫は、素っ裸で泳ぎ遊んだ若いころの僕にとっても懐かしいものだが
知らない人にはただの廃墟然とした、うらぶれた風景でしかないだろう。かといってこれは、
ありふれた日常でも何気なくすれちがった風景でもない。その時その場所にしかなかったものだ。

それでも、記録でも記憶でもないのなら。では、写真そのものって何なのだろうと思う。
つまりそのどちらでもないのなら、それを津田 仁 的にいうなら〈名のない時〉というしかない。
たとえその被写体が固有名を持ち、あるいは特定の場所であったとしても。

だから写真は宙に浮く。名状しがたいものとなって、この現実とは異なるものを
私たちに見せてくれる。それにどれほど親しみ、いとおしい人でありモノであってもだ。
すれ違った誰か、通り過ぎたどこかに、また時を経て再会再帰することに
私たちは気づいているのだろうか。

内野ゆきなの写真を見ていると、そんな声なきこえがあちこちから聞こえてくるようだ。
失われた時を求めているのは、いったい誰なのだろうかと。

                                (元村正信)

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