元村正信の美術折々/2021-03-29 の変更点


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美術折々_327
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バブリーな世界の価値


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「アートの使用価値と交換価値」とはなんだろう。これについてこのあいだFB上であるやり取りがあった。ここではT氏とY氏としておこう。


端的にいうと T氏が「作品の表現は、固有の使用価値そのものであり、交換価値化の否定です。交換価値として商品化されることは、その作品の固有の価値の否定になります」と言う。それに対してY氏は「交換価値として商品化されることは、その作品固有の否定にはなりません」というものだった。 


このやり取りは平行線のままだったが。まず「使用価値」とは物や商品が何かの役に立つという有用性であり、「交換価値」とはそのような物や商品が他の物や商品あるいは貨幣と交換される価値のことである。

T氏もY氏も、アートが「固有の表現」 であることでは一致しているようだ。違うのは「作品」というものを交換価値化されることを否定するものと捉える(T氏)か、どのように交換・商品化されてもその価値は肯定されうる(Y氏)かである。


ここでの議論は現在の「アート」のように売買を目的化しようがたとえそれが結果であっても、ほとんど売買の対象とされ商品化されている表現つまり「作品」を〈固有の使用価値〉と規定するにしても、あるいは〈商品(作品)という交換価値〉として容認するにしても、いずれにしろ大きな問題とはならないだろう。なぜなら、いくらアートを「固有の表現」だといってもその固有性そのものが揺らぎ、アートとアート以外のものをどう区別し分け隔てるのかという境界が曖昧で恣意的であるのが現在だからだ。

むしろなぜ「商品」となったモノが、なおかつまだ「作品」でもあり続けるのかという〈物の二重性〉のほうが、僕には切実に思える。だったらどんな製品・商品も、じつは「作品」だった「アート」だったと追認されてよいはずだ。

いまやだれも「商品」と「作品」の違いを説明できないほどに、この両者はソックリなのである。たとえどんなに純粋で無垢な作品だとしても、それは商品化しなければほとんど生き残れないし「作品化」することはできない。作品の自律性や純粋性を強調すればするほど「作品」は孤立するしかないのである。ましてや作品が売れてこそアーティストだと主張している人からすれば、買い手の付かない作品やそんな自分になんの自信も希望も持てないだろうから。だったらこれは「商品」そのもののことではないか。


かつてマルクスは「商品になるためには他人にとっての使用価値があること」(『資本論』)と言ったが、たとえそれがT氏がいうように「固有の使用価値」だとしても、すでに他人にとっての固有の使用価値は、交換価値に飲み込まれてしまっている。作品も商品であるという以上に、すでにどんな「商品」もあらかじめ「作品」を含み持っているのである。


それほどに、現在では〈作品〉ほどアートにとって危ういものはないということを、売る者も買う者も心しておくべきだろう。作品はありや、なしや。その〈価値〉は矛盾そのものである。それが売買されているバブリーな世界なのだ。
それほどに、現在では〈作品〉ほどアートにとって危ういものはないということを、売る者も買う者も心しておくべきだろう。作品はありや、なしや。その〈価値〉は矛盾そのものである。それがなおも売買され続けるバブリーな世界なのだ。