元村正信の美術折々/2020-12-09 の変更点


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美術折々_309
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鬼のような心が

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空前の大ヒット作となっている『鬼滅の刃』。いまのコロナ下にあって子どもから大人まで熱中させるこの物語は、日々の息苦しい現実をどう反映しまた受け止められているのだろう。わずか4年前に週刊少年ジャンプで連載が始まった一編の漫画が、TVアニメになりさらに劇場版になり、コミックからゲーム、DVD、そして今や社会現象にまでなってしまった。それだけの理由は色々あるのだと思うが。

たとえばそれを「人間を鬼にする現象そのもの」で「人々を幸せにできない社会構造」(岡本 健・近畿大准教授)だといい、また藤本由香里(評論家)は「多くの犠牲を覚悟して勝ち目がない鬼との戦いに耐える物語」だという(『鬼滅考』西日本新聞連載より)。たしかにそのどれでもかも知れない。

非人間である「鬼」と「人間」とのバトル。だが僕は思う。ここでは人間だって超人間であり、それはほとんど鬼ではないのか。では人間と鬼はどう違うのか。私たちは「鬼」ではないと言えるだろうか。そのような人間の鬼との戦いがなぜ共感を得るのか。おそらく近代以前の、遠くは〈異界〉に宿る霊のような存在であったものが近代化し現代化し世俗化した果てに擬人化されたあげく、人と区別がつかないものにまでになってしまったことは、私たちの〈生〉そのものが幻想/仮想化したからではないかと思う。あるいはこの資本主義の下でいつの間にか私たちはケモノ化し、自然に「鬼」になってしまったのだろうか。

あたらしい残酷がまた日常化したのだろうか。あなたにとって「鬼とは?」という質問に、『鬼滅の刃』を見たある小6生はこう応える。「残酷と美しさは紙一重の部分があるのかも」と。私たちは近代以降、主体を持った個人としての「人間」だと教えられ思い込まされ続けてきた。だが本当に人間なのか、人間になれたのだろうか。

僕からすれば『鬼滅の刃』は、仮想された鬼と人間との戦いではない。そこに人間のどんなに無垢な優しさを、幸福への願いを重ねても。人間どうしの葛藤であり非人間化の残酷な闘いなのではないかと。私たちは幸せになれるのだろうか。この余りにも理不尽で差別と格差と貧富が、そのどれもが肯定されそれらを甘受し続ける世界の中で。

先の小6生が、この物語で繰り返される「残酷さ」に対して、なぜ「美しさ」というものを思ったのか。それは作画上のカッコよさや文字通りの美しさだけではないと思う。それはおそらく「美しさ」というものには、どんな暴力や現実に否定されたとしてもそれに対置できるつよい〈価値〉があると、どこかで感じているからではないだろうか。それだから私たち大人こそが、なぜ「美しさ」につよい価値があるのかを、答えねばならないはずだ。
先の小6生が、この物語で繰り返される「残酷さ」に対して、なぜ「美しさ」というものの紙一重を思ったのか。それは作画上のカッコよさや文字通りの美しさだけではないと思う。それはおそらく「美しさ」というものには、どんな暴力や現実に否定されたとしてもそれに対置できるつよい〈価値〉があると、どこかで感じているからではないだろうか。それだから私たち大人こそが、なぜ「美しさ」につよい価値があるのかを、答えねばならないはずだ。

テクノロジーの進化は、次々と私たち人間から活動の仕事の場を奪い人間を「非在化」して行こうとする。いや労働が禁欲的で神聖なのではないし、テクノロジーのせいでもない。人間じしんが同じ人間であるはずの私たちを、別の人間ではないものへと非人間化している。最終話で、無惨は「死」をまえにして産屋敷輝哉の「ひとの思いこそ不滅」という言葉を思い出しながら「人間化」したのだろうか。けっきょく逆に炭治郎は「鬼化」してしまうのである。しかし、ひとの思いは不滅だろうか。思いだけが空転してはいないか。

負けないであきらめないでと、私たちの一生というものは励まされる。だから、どこまでも「勝ち目がない鬼」というものに立ち向かう。ただ「鬼」とは自分にも向けられているのだ。そんな「思い」や「優しさ」という犠牲だけでいいのだろうか。僕は、鬼のような心がもっとちがうものに向けられてもいいのでは、と考えたりもするのだが。どうだろう。