元村正信の美術折々/2020-12-03 の変更点


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美術折々_308
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人間ではないものとの未来


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「アートは、アートで、アートが、何かなんて分からないけれど、とにかくアートがあることによって」と誰もかれもが繰り返し吹聴し実践しているあいだに、時代は非アート化の志向を強め、ついには〈ゲームの時代〉がうたわれるようになったようだ。日経新聞朝刊文化面も11月24日付から5回にわたって『ゲームの時代』と題して連載を組んでいた。


アートで言えば、かつてのハイアートとローアートといった図式を曖昧にし無効にしたのは、知られる通り村上隆的な「スーパーフラット」だ。日本的ポップやアニメといったサブカルチャーを積極的に取り入れることで、「現代美術」が孕んでいた自己言及性や自己否定的超克への問いを喪失させ、ものみな「アート」化してしまった。


それは一方で1990年代後半以降のポケモンやゲーム、アニメで育ってきたデジタル表現世代の支持がそれまでのサブカルをメインカルチャーへと押し上げた時代でもある。もやはアートであるこだわりも必要もない、いわば非アートへの嗜好だ。それらが「ゲームの時代」としていま様々な領域に影響を与えているのではないだろうか。
それは一方で1990年代後半以降のポケモンやゲーム、アニメで育ってきたデジタル表現世代の支持がそれまでのサブカルをメインカルチャーへと押し上げた時代でもある。もやはアートであるこだわりも必要もない表現、いわば非アートへの嗜好だ。それらが「ゲームの時代」としていま様々な領域に影響を与えているのではないだろうか。


現在のコロナ下のように、会話やコミュニケーション、そして表現というものが次々とオンライン化される中で、アートはもちろん音楽、映画や演劇、文学までもゲームとの融合を試みている。2016年にリリースされ世界で10億人がプレーしたとされる「ポケモンGO」は、現実の空間をゲーム化して見せた。もはや現実と別の虚構があるのではない。仮想というフィクションの中に、私たちの現実の方が引き込まれているのである。


現実は不公平に違いないし、それへの反感や反発もあるだろう。ただゲームの中での「個人」は圧倒的な没入感に浸りながら、ある種の公平感をも得るし、また同時に支配と従属をも体験することになる。同連載で人類学者の中沢新一は「ゲームは最終的には人間が人間でないものと触れるためのメディアになる」というが。


私たちはその「人間ではないもの」を、どのようなものとして想像し作り出そうとしているのだろうか。ケモノか、非人間か、未知の敵か、アバター(分身)か。それとも、もう一人のワタシ自身なのか。そのいずれでもあるにせよ、ないにせよ。私たちは「人間以外」のものとの関係を、愛(注 : 中沢)を、そこに求めているのなら。逆にいうなら、人間を求めてはいないのなら、ということになるのだろうか。それでも「愛」は生まれるのか。


「ゲームの時代」とは何か。これはたんなる〈遊び〉ではない。現実が仮想になり仮想が現実となってしまった今の私たちが、これから生きていく時代の意識と無意識との振幅のなかで、危うい座標に踏み込もうとしていることだけは言える。未来はどうなるのだろう。