…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_276 ~ あの濃密な時間だけがまだ ~ ある知識人は言う。「接触を避ける新しいコミュニケーションを創造する必要がある」と。 またある者は「人と人が出会う可能性を減らしていくことだ」と言う。 ではこれまでの人間どうしの親愛なる関係の蓄積や、向き合った会話の数々は何だったのかと。 そんなにいともたやすく、私たちは変われるのだろうか。 じゃあ、悲惨で欺瞞に充ちたこのひどい国も社会も、これで生まれ変わるというのか。 「新しい生活様式」や「新しい日常」と「新しい距離」によって、それらが帳消しにされるのか。 あるいは「日常」を取り戻すとはどういうことなのか。いまが異常だからか。たしかに異常だ。 だがこんな異常も当たり前とするなら、それもすでに充分に日常になっている。 もし「密閉・密集・密接」を避ける生活の慣習を、「新しいスタイル」というのなら。 それこそこれまでの人間の関係のすべては清算され、やがて崩壊するしかないだろう。 なぜひとは、場を求め、集い群れ、接し、体ごと表現して来たのか。 それはそうする必要も必然もあったからだ。 つまりそれらを改め更新するということは、これまでの人間の接触や移動の交流の仕方を否定的に 乗り越えねばならならないということになる。濃厚接触にたよらない社会の実現が目指されようとしているが。 乗り越えねばならないということになる。濃厚接触にたよらない社会の実現が目指されようとしているが。 人には頼らない、人を必要としない世界のありようが、巨額の無限赤字国債を抱えて試行されている。 あの濃密な関係とはいったい何だったのか。ときに性交であり恋愛であり家族であり 人と人との関係をそう呼んでいたのは、ついこのあいだのことだったはずだ。 もしかしたら、時が止まったのだろうか。 生産も消費も成長も労働もそして生も死も、あるにはある。 悦びも悲しみも苦しみも怒りもそして笑いも、あるにはある。 それでも無理やりに、すべてがただ虚しく空回りしているんじゃないだろうか。 世界は最悪だったあの頃に恢復するのだろうか。いや誰も最悪になんて戻りたくはないのだから。 もしも時が止まったのなら、私たちは時と時のあいだを生きて行くしかないのだ。 しかし時と時のあいだの距離を、いまだ誰も知らない。 ただ、行き場を喪った〈濃密な時間〉だけがその距離という間を彷徨っている。 ~ #lightbox(willow_0215.jpg,,40%)