元村正信の美術折々/2020-04-26 の変更点


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美術折々_268
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生存権としての芸術
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緊急事態宣言による休業や様々な自粛要請によってこの国の経済全体が停滞悪化していることはいうまでもないのだが、「密集・密閉・密接」の対象となる文化芸術活動もまた同調するようにして活動の自粛や縮小に追い込まれている。文化産業にあってもエンターテインメントはじめ演劇、音楽もその危機感はいっそうつよい。

欧米のように国家・民間からの文化支援やアーティストの社会的地位、資格が明確でない日本の作家や製作者、事業者は、さらなる困難・困窮を強いられている。

たとえばその活動の全体をここで「アート」としておおきく括ってしまえば、それらが表現としてだけでなくいかに商品あるいは事業、経営として成り立たねばならないかが分かるというものだ。

では経済活動とは異なる「芸術」というものが、はたしてあり得るのだろうか。芸術も作品もまた、商品化され経済化されてしまった現在に。もしあるとしたら、おそらくそれは生存権としての「芸術」というものではないか、と僕はかんがえる。

日本国憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。これはつまりだれもが等しく「生きる権利」を保障されるものだ。僕がここで着眼するのは「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」というものが、生きるだけでなく同時に何も生産しなくとも「文化的な生き方」、営みや行為としての「芸術」の生活も含みうると解釈できるからだ。

よく言われるのは、芸術なんて生活の心配がない者が関わるもののことだと。それは違う。じっさい憲法は、文化的=最低限度だと規定している。つまり人間として「最低」の状態であっても「文化的」な生存が実現されなくてはならないということである。もし芸術が文化ねの名に値するのなら。
よく言われるのは、芸術なんて生活の心配がない者が関わるもののことだと。それは違う。じっさい憲法は、文化的=最低限度だと規定している。つまり人間として「最低」の状態であっても「文化的」な生存が実現されなくてはならないということである。もし芸術が文化の名に値するのなら。

ということは、ここになんの利益も経済的価値をも産まずとも芸術的生存も作品も可能だと第25条は認めている、含み持っているということだ。どうだろうか。