元村正信の美術折々/2019-12-23 の変更点


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美術折々_247
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続  リスクアート
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11月27日付のこのブログで「芸術のリスクとは、損害損失の発生や善悪の可能性以前のものとして、より潜在的でなおかつ根源的ではないのか」と書いた。これはブライアン・イーノがいったという「危険な感性」の体験としての芸術や文化にひそむものを「芸術のリスク」と僕なりに言い換えてみたのだが。


それを芸術ではなく「アート」といった方がもっと分かりやすいというのなら例えばこういう話はどうだろう。ある大手広告代理店が17日付サイトで「ビジネスにおけるアートの活用を支援するコンサルティング事業」を開始したと発表した。アートへの注目、アートをビジネスに、ビジネスへのアート効果等々。いつも言うけれど、模糊としたそんな「アート」って一体何なのだろう。ここでのビジョンつまり「アートパワー」の内面化と、かつてボリス・グロイスが「アートは政治などの目的に利用されても、その目的を崩壊させ、無力化する力を持つ」と語った『Art Power』とはどう違うのだろうか。そこでグロイスの言葉が含意しているのは、明らかに権力への意志であると同時に「アートのリスク」なのである。


ではビジネスにとっての「アートパワー」とは、一体どんなものなのだろう。「ビジネスは、アートになる。」(『美術回路』)と謳う時、おそらくここではアートというものを感性を駆動させるポジティブな力、肯定的な力として解釈しそれをビジネスのエネルギーにしようとすることだと思われる。それが問題「解決」のためではなく、問題「提起」の手法だというのもうなずける。これからのビジネスには、感性の実体化が、イメージの経済化が期待されているということだろう。

だがここでもう一度、グロイスの「目的を崩壊させ、無力化させる力」としてのアートパワーを思い起こす必要がある。リスクには予測される危険と予測できない不確実性があるのだとしても、さらに「アート」は予測できない危険さえ孕んでいるということを知るためにも。

それでも問題はそれが可視化しにくく、なおかつ潜在的であり根源的であることだ。芸術というものが無限の断面を持つものなら、負の側面もあり否定的断面もあるということだろう。

そんな「アート」をどう評価するか。これには正解はないのだから。もしそれが未知の、未知数の、不確定で不可解なものであればあるほどアートは、より本源的に現れることになるだろう。アートを活用するにしても、リスクと無縁なアートなど果たしてあるのだろうか。
そんな「アート」をどう評価するか。これには正解はないのだから。もしそれが未知の、未知数の、不確定で不可解なものであればあるほどアートは、より本源的な負荷をもって現れることになるだろう。アートを活用するにしても、リスクと無縁なアートなど果たしてあるのだろうか。

それでも「アート」は期待されているのなら、恥ずかしくも光栄というべきか。
これからのビジネスパーソンたちもまた、試されているのである。