元村正信の美術折々/2019-07-14 の変更点


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美術折々_219
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宮野英治 展 “ IN MY BRAIN II ”より
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画廊の四方の壁面を覆い尽くした423枚のドゥローイング。描かれた顔、顔、顔、顔…。
「一日一枚、人の顔を描く」というルールを自分に課した。たとえそれが断続的であるにしても、日記のように描くことは楽しいことばかりではないはずだ。それでも描くことの苦しさは、どの顔からも感じられない。

さらにそれらはどれも日本人の顔つきとはちがう。むしろアメリカ南部や中南米、ラテン系やアフリカ系の人々の顔を思わせる。音楽ならロックやソウルというよりもっとゴスペルやジャズ、ブルースの方だ。出自も系譜も異なる人間の坩堝のような顔としての。でもそこには孤独や悲しみよりも、なぜか淡々とした一瞬の安堵さえ感じる。

そういった無数の他者の肖像を描きつつ、宮野は言う「描かれているのは、自分自身」だと。そしてこれは「私の記憶で埋め尽くした空間」だともいう。つまり、残された記憶の集積が、宮野がいう「脳内」となって画廊の壁面全体に再現されたと言うべきか。だが僕は思う。おそらくここでの「記憶」とは、たんに自分が覚えているということではないのではないか。確実に伝えるための記録でも過去の経験の忘れなさとしての記憶でもなく、何かもっと見たものとは〈別の肖像〉を、宮野は描こうとしているのではないだろうか。

ただこれは、あくまでも僕の憶測にすぎない。なぜ他者は「自分自身」なのか。
そこには、自己と他者の未分化な曖昧さを見つめようとする、宮野英治の眼がある。

天井からは一個の裸電球が吊るされている。そして同じ天井から吊るされたブラックボックスから「WELCOME TO MY BRAIN」という蛍光灯の白い文字が、見る者を歓迎している。ようこそ脳内へ。私たちはそこに足を踏み入れると、やがてどこまでがいまの私でどこからがあなたなのかに、きっと迷い悩み揺らぐことになるだろう。だって少なくとも、あなたは私であり、私はあなたでもあるのだから。
天井からは一個の裸電球が吊るされている。そして同じ天井から吊るされたブラックボックスから「WELCOME TO MY BRAIN.」という蛍光灯の白い文字が、見る者を歓迎している。ようこそ脳内へ。私たちはそこに足を踏み入れると、やがてどこまでがいまの私でどこからがあなたなのかに、きっと迷い悩み揺らぐことになるだろう。だって少なくとも、あなたは私であり、私はあなたでもあるのだから。

[同展は7月21日(日)迄、アートスペース貘にて]
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