…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_213 ~ 水のないプール追想 ~ すでに周知の通り6月3日、美術史家・本江邦夫氏(多摩美術大学美術館長)が亡くなられた。 僕にとっての本江さんは、彼が東京国立近代美術館の研究員になって3年目くらいだったと思う。まだ30歳だ。同時に美術手帖の展評欄にも批評を書いていて、僕の東京・真木画廊の個展「水のないプール」を見て下さり、 同誌1978年11月号の同欄で取り上げていただいたことがあった。画廊近くの日本橋室町の喫茶店で、作品に ついて話し込んだ思い出がある。もう41年も前のことだ。 その頃は、透明ビニールを重ねていくような作品だった。ちなみにこの個展タイトル「水のないプール」は、 その4年後の1982年2月に公開された若松孝二監督、内田裕也主演の同名映画があるが、僕の当時の個展作品 とは無関係である。 ともあれ、本江さんが僕の作品に目を留めてくださったことをここで改めて感謝したい。 そして本江邦夫氏の急逝を悼むばかりである。どうぞ安らかに。 だが残された者にとってはそうもいかない。いま美術手帖6月号は、「80年代・日本のアート」と言って振り返る。一瞬、僕は目を疑った。80年代の日本に「アート」なんてあったっけ。そう呼んでいたか。あったとしても、まだ「美術」ではなかったか。「現代美術」ではなかったのか。 それでは60年代の反芸術も、当時の「反アート」は、と言い換えて歴史を修正しなければならなくなる。 ならば、桃山美術も桃山アートに書き直すか。たとえもし今の時代が美術や芸術という言い方でなく、それらをほとんど「アート」と呼び慣わしているとしても、過去を歴史を、現在から恣意的に書き直し歪めてはならないはずだ。 これを奇異に思うのは、僕だけでしょうか。歴史とは、歴史を語るとは、そういうものなのですか。 これを奇異に思うのは、僕だけでしょうか。歴史とは、歴史を語るとは、そういうことなのですか。 本江さん、どう思いますか。