元村正信の美術折々/2019-05-14 の変更点


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美術折々_209
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未来の子どもたち[芸術篇]
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では〈116年後〉の2135年。私たちの芸術はどうなっているのだろう。15歳未満の子どもの推計人口が限りなく0(ゼロ)に近づいている未来の芸術のありよう。

その時この国の総人口が、もし少数のグローバル・エリートやサイバー・リバタリアンと富裕者たち、さらなるAIとIoTの開発運営に関わる先端労働者、そしてそれらを媒介する多数の移入移民外国人、あるいは新しい日本人たちによって構成されているとしたら。もちろんこの「総人口」を腐食しその空洞化を実体として担っているであろう産業、サービスの基幹たる自動マシンやロボットは含まれてはいないとしても。


それでもここでは日本人やマシンを含めた〈人間〉という概念が、すでにAIやIoTとの共同幻想として成り立ち、あるいは更新されているであろうことを予測するなら。この時、芸術はその圧倒的な趨勢のもとに果たして存在しているのだろうか。それとも、芸術だけは例外か。

ここで僕が少しでも言いいたいのは、文明の残り香としての人類の歴史や世界遺産を反芻し保存しておいた古典を始めとする「以前の芸術」を、何度でも再評価し愛好する楽しみとしての芸術、つまり「永遠の印象派」のことではない。それでも未来のあたらしい《芸術》は、生きるという充足と欠落を抵抗を、あるいは肯定と否定とを同時に〈問題〉にできているか、そういう〈作品〉がわずかでもあるとしても、どうあるのだろうかということなのだ。
ここで僕が少しでも言いいたいのは、文明の残り香としての人類の歴史や世界遺産を反芻し保存しておいた古典を始めとする「以前の芸術」を、何度でも再評価し愛好する楽しみとしての芸術、つまり「永遠の印象派」のことではない。

それでも未来のあたらしい《芸術》は、生きるという充足と欠落を抵抗を、あるいは肯定と否定とを同時に〈問題〉にできているか、そういう〈作品〉がわずかでもあるとしても、どうあるのだろうかということなのだ。


じゃあ逆に、「何も問題はない」と評価され歓待される時。それは安全・安心で快適であり、大勢に影響なく目の前に妨げるものもない、あるいはなんらかの効果が期待され、何の邪魔も抵抗もなく順調である、ということになる。であるのなら、そこで問題のない芸術は〈すでに問題ではない〉ということができる。


116年後の、未来の人間にとって〈芸術〉は、なおも必要とされているのだろうか。役割などという社会的分担のことではない。それは、多くはない〈未来の子どもたち〉が芸術というものを、そのときの現在的な「糧」にしているのだろうか、ということでもある。

そこでは、余りにも生活になじみ同化し、人とつながり、社会との関係に親しみまるで通貨となった「アート」が、つまり野菜や肉とレトルト食品と、いや一粒で済む夕食の栄養の中に難なく溶け込んでしまい、あるいは市販の水や空気同然となった未来を想像できるからだ。


いやご安心を、すべては順調だと。まるで大気圏外の軌道から、この惑星を見下ろして安堵しているような錯覚。では、116年のあいだ列島を崩壊させる大地震も原発事故も何もなく、いまだ空気は澄み渡り土地は豊かで空はどこまでも青いのか。それと同じように芸術もあるのだろうか。少しくらいの淀みや濁りも破綻もあるさそれが現実だと、笑ってはいけない。

それはきょうのことではないのか。あと100年のあと、願わくは廃墟の下敷きとなって行方知れずの化石のように永き眠りにつかぬように、未来の《芸術》が、子どもたちが。