元村正信の美術折々/2019-04-19 の変更点


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美術折々_204
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私たちの、もっとも醜きもの
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いつも作品というものを制作しながら、同時に美術や芸術についてもあれこれ考えている身ではあるけれど。
その中で〈美〉もそうだが、それと対極におかれる〈醜〉というものがある。ではこの世で最も〈醜い〉もの
とはいったい何なのだろうと考えたりする。それは計り知れない人の心の奥底か、あるいは凄惨極まる残虐か、放置された腐乱か、人食か、いや地獄そのものとしての、この世だろうか。

たとえば、アドルノは「美は醜から発生したのであってその逆ではない」と言ったが。醜はキリスト教の不可欠な〈主〉だった。その醜さが崇高なる美へと昇華され続けた。たとえその関係を、絶対的あるいは相対的に捉えようと、美と醜は互いに背理しながら同時に鏡像関係にあることにいまも変わりはない。
この世の〈美しさ〉から、いまだ最も遠くにあり、憎悪され続ける最も〈醜い〉ものとは何か。

それは、たぶん。《お金 (貨幣) 》以外にないのではないか。おそらくその他のどんな醜さも及ぶはずはない。
むろん、人のために使われ人を救い、役に立つお金もあるだろう。しかし生から死まで付きまとい、歓びを、堕落を与え、翻弄し、裏切り、また鼓舞し、高めるもの。そして天国と地獄。

ほとんどの〈価値〉が、生のありようも含め、お金(貨幣)に換算され数値化され流通し、さらにまた新たな価値を生む現在。つまり、何層にも重なった見えない〈隠蔽〉の進化として残存する〈醜さ〉がそこにあるのだ。

これはどんな貨幣も、この虚偽にみちた国家よりも社会よりも上位にあって揺るぎない。おおくの〈美〉もまたそういう貨幣に支配されながら売買されその価値を高められていく。芸術も、美も、いまだこういった醜から生まれ続けていることの桎梏とその自覚なしには、なんの表現も意味すらも、ないのではないだろうか。
これはどんな貨幣も、この虚偽にみちた国家よりも社会よりも上位にあって揺るぎない。おおくの〈美〉もまたそういう貨幣に支配されながら売買されその価値を高められていく。芸術も、美も、いまだこういった醜から生まれ続けていることの桎梏とその自覚なしには何の表現も、意味すらもないのではないだろうか。