元村正信の美術折々/2018-12-08 の変更点


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美術折々_180

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冷泉荘で見た、山口 巧の写真

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12月10日まで福岡市博多区上川端の冷泉荘ギャラリーで開かれている、安東千聡・浦田怜那・徳田健・山口 巧の、4人の若手写真家たちによる写真展『反射した視選(線)』。その中でも山口 巧の作品『見えない/待つ』
は、ことし精力的かつ多様な発表を試行してきた彼の写真の中でも、僕の目にはむしろ、“ 絞り ”の効いた禁欲的な視線すら感じさせた。今回の作品に添えた山口 巧の短いコメントをあげておこう。

「あの時、突然起こった出来事は今、その出来事が起こった時まで『待つ』行為を行っている。経験者ではないので、想像しながらその先を向き考える。見えるようで見えない、場所をいつまでも意識しながら」。これは、たとえばベケットにおいての「ゴドーを待ちながら」が未来の空虚を暗示したのだとしても、この若い作家にとっては知らない〈過去を待つ〉という逆の射程として、私たちが抱え込んだ〈空虚〉が過去に向けて、いま投げ込まれたとでも言ったらいいのだろうか。

これは一体なんのことだろう。9点の写真というか、あるいは一つの写真というか。それをじっくり見ていくと、やがて彼のその言葉と写真、そしてそれ以前の出自とがつながってくる。

つまり、『見えない/待つ』は、ナガサキのことなのだ。山口は言う。「あの方角に向かってカメラを」構えたのだと。だからと言って、ここでことさら「ナガサキ」をいう必要はない。「作品」をそこに置くということへの、心にくいまでの場所へのディテールに対する過剰な配慮。だからそれぞれの写真は、ひとつ一つのもの以上の、緊張を孕んでしまっているのだ。

なぜ、いくつかの写真はカールしているのだろうか。格好よすぎはしないか。「もしかしたら撮る動機に自身の意思などはどこにもなく」と、10月のテトラでの個展で彼は語っていた。ではなにが山口 巧を〈写真〉に向かわせているのだろう。
なぜ、いくつかの写真はカールしているのだろうか。格好よすぎはしないか。「もしかしたら撮る動機に自身の意思などはどこにもなく」と、10月のテトラでの個展で彼は語っていた。ではなにが山口 巧を〈写真〉に向かわせているのだろう。どこにもない意思がそれでも、知らない過去を待つ。
1995年長崎市生まれ。僕にとっては、ここ福岡で久しぶりに出会えた若い写真家だ。
これからを、たのしみにしたい。
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