元村正信の美術折々/2018-06-05 の変更点


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頼りない〈自己〉というもの


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雨のいち日。きょうはどこにも出ないと昨夜から決めていた。

梅雨といえば、六月の激しい雨の日に生まれた僕は、そのせいかどうかは分からないが中学に入るまでの12年間、ほとんど毎日泣かない日はなかった。弱い泣き虫だったのだ。

厳しい父と優しい母。幼い僕にとって、フロイトが言ったように「父殺し」は日々の願望であり無意識でもあったのだ。

からだを濡らす雨と涙は同義であり、ずっと恐れと慰めだけが交互に僕を支配していたように思う。

それでも、泣きなからでも一人っきりで描ける「絵」というものは、「芸術」すら知らない子供の僕には心づよい友となっていった。

自己と異物との葛藤。雨、涙、そして皮膚はいつも外界の刺激を感受してきた。ここにも肯定と否定が対峙している。
《異物》とは《芸術》の別名ではなかったのか。

そして「自己」という頼りなさ、曖昧さ、非固定性というものは、何ひとつ解決するはずはないのだと改めて思う、梅雨のいち日だった。
そして「自己」という頼りなさ、曖昧さ、非固定性というものは、何ひとつ解決するはずはないのだと改めて思う、梅雨の
いち日だった。