元村正信の美術折々/2018-04-11 の変更点


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美術折々_141
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見ることの可能性と不可能性 (2)
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現在における「美術/芸術」体験が直面するものを考える時、先に岡崎乾二郎が指摘した「ものを見ることの
意味が失墜した」ということの方にもう少し近づいてみよう。ほんらい視覚とは、肉眼を見開いたときに外界
からの光の刺激を受けるとめる感覚のことだが、問題はこの「眼を見開く」ということが、いったい何にまず
向けられているか、ということだろう。

岡崎が、視覚メディアの発展は「視覚の可能性の拡大ではなく、人が実際に何かを見ることの意味、価値を失墜させた」というとき、今では見ることのできる世界は直接的経験なしにあらかじめ拡大されているのに、私たちの「眼」という、見るという視覚の機能そのものは、逆に視覚の不可能性の方へ 、「見ない/見えない」ことの
方に傾いているのではないかと僕は思う。

例えばある料理店での若い二人連れの光景。たがいに端末を手にしている。それを見ては会話をしながら料理がくるとすぐインスタにあげる。相手を見つめているのか、会話を楽しんでいるのか、食事を味わっているのか。おそらくそのどれもでありながら、それらのどれでもない状態がここにある。つまりそれらの行為、身体の
すべてに「端末」は絡みながら、時間は進み空間はそのような場としてそこで「視覚」は消費されている。
そして視覚は、感覚は、身体のそとへ〈散乱〉しているのだ。
そのようにして視覚は、感覚は、身体のそとへ〈散乱〉しているのだ。

こうして「視覚」は徐々に、あるいは急激に、疎外されているのではないか。

じかに見るという経験は、じつは単に見えるというだけのことだけではないはずだ。「見える」ということは、様々な明暗や色彩、奥行きや運動あるいは意識しないものまでをも受容し、同時にそこに触覚や聴覚といった
他の感覚をも統合し、目の前の現実を体験しようとしているはずなのに、私たちはその感覚のあまりの豊穣さを過剰なほど抽象化し、いやむしろ捨象しているのではないか。

「端末」を肌身離さず持つということは、私たちにとってそれが外界との接触の端緒となり、すでにツールと
いうよりも自らの手足となって身体化していること。もっといえば「視覚」となっているのだ。さらに言えば
その「視覚」というものは、すでに「見る」ということを〈外部化〉していると思われる。「見る」ということが自らがじかに見る経験のことではなく、見知らぬだれかが見たものを通して見る、それを追体験するように
して見る。いわば見るという経験がまず副次的、二次的、間接的に始まってしまっているのではないだろうか。

たとえれば、川に架かる橋を渡るという実際の経験ではなく、その橋を渡る人や車や物をどこからか見ることで、そこに橋があり、橋を渡ったという「経験」を私たちはしたかのように見る。これは仮想などではない。
現実にそういうものとして「見る」経験をしているのである。

「見るまえに見せられているということ」は、こういうことだろう。こうしていまや私たちの視覚は、感覚は、見てはいないものをも見ていることになる。触れてはいないものに触れている。ただそのことが視覚あるいは
感覚の拡大、拡張ではなく、むしろ見ることは散乱・散逸しているのである。

やっとここで、これまでの私たちの「美術/芸術」体験というものが、そこで「見えるものと見えないもの」との間で確実に起こるであろう葛藤を巡っての快不快、満足不満足や分かる分からないという、いわば〈感情〉を
伴う表象であったことを思い出す。