元村正信の美術折々/2017-12-23 の変更点


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美術折々_123
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欠くはずのない、光と闇を持て
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いまでは健康芸術ということばさえあるくらい、どうやら芸術は健康で健全で穏やかな生活におおいに寄与しているらしい。もっとも、僕にとって〈芸術〉はこの上なく不健康で不健全で、不穏な生の領域からその衝動は
発せられるものなのだが。

美術家の彦坂尚嘉がFBで、「芸術の意味というものを、ストレスの低下の中に見るというのが、今日の多くの人達なのです」そして「ストレスの少ないものを見つめていたい。そういう欲望を持っているのです」と書いて
いた。これはその通りだろう。

つまり、私たちは芸術というものにもストレスを感じたくないのである。アートとの出合いにおいて不愉快な思いをしたくない。いまの市場原理というのは、商品が不快感や嫌悪感を人に起こさないことを前提にしている
ので、そういう商品に慣れ親しむ私たちは、芸術と思っている「商品」に対してもおなじ感覚で接することに
なる訳である。

たとえば、最近全国各地で増えてきたアートホテルやホステル。宿泊施設の部屋の内外に単に作品を配置する
だけでなく、客室そのものを半ば作品化したり、そこでの作品との出合いやアート体験を売りものにするホテルといったあれである。

これらは一見、アート好きには歓迎されそうだが、そこに収まる作品はおのずと企画段階で選別され不快、不愉快を感じさせないものになっている。僕などは、たまにホテルに泊まるなら、やはり清潔でシンプルな部屋にゆったりくつろぎたいと思う方だ。ひとりでも誰かとでも、そこでは「見る」ために泊まるのではなく、休息
するために泊まるのだから。まあ、アートホテルというものも千差万別で多様な「ホテル」のひとつの形態と
考えれば済むのだろうが。

話を戻すと、芸術の体験というものが非-ストレス化に向かっていること。健康な芸術、楽しめるアート、癒しの表現等々。この日々過剰なモノとコトと出合いの社会にあって、もはや仮想空間すら現実としている私たちにとって、芸術は異質で不可解な〈美的経験〉としてではなく、日常となんら変わることのない顔を持つイベント的な消費体験を提供するものだという理解のしかた、つまりある種のひと時の〈幸福感〉を、そのような体験をアートにも求めているのだと、僕は思う。

しかし、もしほんとうにそれが芸術〈作品〉との出合いだとしたら、芸術はずいぶんと見くびられていることになる。それはまた当の芸術じしんが、過激でも先鋭的でもなく脆弱にも変質している皮肉な証しともなっているのである。残念なことだ。

だが、〈真性の芸術〉というものは、光と闇のいずれをも欠くものではない。眩しいばかりの光と、そして暗闇や、
漆黒の闇と自らがつながらずして〈作品〉は生まれないのではないだろうか。だとすれば、不快や不穏な生は、目の前の作品にもあるべくしてあるはずだ。欠くはずのないものとして。
漆黒の闇と自らがつながらずして〈作品〉は生まれないのではないだろうか。だとすれば、違和や不穏な生は、目の前の作品にもあるべくしてあるはずだ。欠くはずのないものとして。