元村正信の美術折々/2017-07-12 の変更点


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美術折々_105
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未来への抵抗
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ここ1年半くらいのあいだで一気に浸透した感のある「地域アート」ということば。

そもそもこの言葉は、『すばる』2014年10月号に掲載されたSF・文芸評論家の藤田直哉の「前衛のゾンビたち−地域アートの諸問題」 という論考が反響を呼び、同氏の編・著による他の研究者や作家との対話や論考を含めた『地域アート  美学/制度/日本』(堀之内出版、2016年)として単行本化されるとすぐに増刷を重ね、
この「地域アート」は瞬く間に広まった。

ことし6月に改正された例の「文化芸術基本法」においても、「芸術祭」と「地域振興」は、よりいっそうの
支援が明記されている。

いちおう、藤田は「地域アートとは、あらゆる地域名を冠した美術のイベントと、ここで新しく定義します」
としている。そしてまた、「地域アート」は「現代アート」から派生して生まれた、新しい芸術のジャンル
です、とも語っている。

その定義はともかくとして、この本は、じつは現在の日本に蔓延するカタカナ表記の「アート」への問題提起の端緒になっていると僕は思う。出版直後の昨年4月、ナディフアパート(東京・恵比寿)のトークのなかで
藤田直哉は次のように語っている。

「アートが地域振興などの目的で使われると芸術としての自立性が保てないのではないかという問題意識を投げかけています。『美』の中心が、造形的な美しさから、コミュニケーションとコミュニティーの造形に移って
いるのではないか。でもそうなると、ソーシャルデザインのような領域と芸術の区別がつかなくなるのでは
ないか。芸術の固有の領域、僕はそれを『美』と呼んでいるんですが、それをどう保てるのか。そういう問題
意識がありました」。

ここには「アート」と「地域振興」そしてさらに「美」、「芸術」という、それぞれ異なる位相の問題が、
きわめて現在的な「問題意識」として同時に投げかけられている。このように考えることのできる人は、
そう多くはないはずだ。

同書の中で藤田はこうも言う。「アートは、このようにコミュニケーションの生成に関わるものへと変化しようとしている。そのとき、問題が起こってくる。そんなに簡単に有用になっていいのか」。さらに、そのとき
アートというものが「道具となっていさえするかもしれない。だが、それでは芸術は死なないか」と危惧する
のである。

ただここでは「アート」と「芸術」が厳密には区別されてはいないのだが。それでも彼の指摘は鋭い。
ただそこでは「アート」と「芸術」が厳密には区別されてはいないのだが。それでも彼の指摘は鋭い。
もちろん、藤田直哉のいう「芸術の固有の領域」という規定のしかたに対する異論は少なくはない。むしろ
「地域アート」というものを「地方」の賑わいに積極的に活用することで、地域参加型「アート」イベント
としての定着と促進を望む声は多い。

しかしここでは、なんでも「アート」として希釈され、変換されることによって「芸術」そのものが、
「芸術の固有」の問題とは何かを問うことすら回避してしまう傾向もいっそう強まっている。いったい「芸術」と「芸術ではないもの」を分けるものとは何なのか。

これを問うことなくして「芸術」は、「美術」は、あり得るのか。そして、たんにコミュニケーションやコミュニティーのための有用性やツールともことなる〈経験〉としてあることの意味を、少なくとも僕はこれからも考えて行きたいと思っている。抵抗に終わりはないのだ。