…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_96 ~ ある蔓延への、感性の抵抗として (4) ~ 1月の来日に合わせ日本語訳本が出た 美術批評家 ボリス・グロイスの『アート・パワー』(現代企画室、2017年)については、以前「訳語」のことで少し触れた。 (原題は『Art Power』 The MIT Press, 2008) 僕はこのブログの前回(3)において同書が 「日本では多くの誤読や誤用を招くように思われもする」と 書いた。というのは、この国で「アート・パワー」というとき、それが一般化される時、おそらく安易に 「アートの力」として流布し流通するであろうことは、じゅうぶんに予測がつくからだ。 「アートを通じて」、「アートにできること」、「アートで社会を変えたい」、「アートは社会的行動」等々。 現在繰り返し耳にし、用いられる「アートと地域」、「アートと社会」の、といった例の〈関係性〉である。 じつはグロイスが 「Art Power」 という時、そこには〈芸術と権力〉の切ってもきれない関係を踏まえて 「パワー」と言っていることを、私たちはまず知っておく必要がある。それは私たち日本人が「パワー」を 単純に「チカラ」と解するのとは違うということを。 ボリス・グロイスは1947年に旧東ドイツに生まれ、旧ソ連のレニングラード大学に学び、1981年に西ドイツ に亡命した。以後はドイツやアメリカを拠点に美術批評家・理論家、キュレーターとしても活動している。 そのグロイスの日本での過去の単著に、初期の論考『全体芸術様式スターリン』(現代思潮新社、2000年) というのがある。これは最初、1988年に西ドイツで出版されているが、この本が書かれたのは旧ソ連時代の1980年代後半、冷戦構造時代の末期である。周知のように1991年にソヴィエト連邦は崩壊する。 この『全体芸術様式スターリン』の中で、グロイスは西欧とソヴィエト社会主義とのそれぞれの経済システムを比較しながら〈芸術と権力〉との関係を鋭く指摘した。例えば、「西欧の芸術家にとって市場がそうであるように、ソヴィエトの芸術家は権力(パワー)を自分とは関わりのない外部として対置することはできない」と 断言する。 それは自分たちの「芸術的意図と権力への意志とが同一のものであるという認識をけっして手放さない」からだともいう。これをロシア・アヴァンギャルドから社会主義リアリズムを経てポストユートピア芸術までを貫く、底流として捉えている。じつはそれらは地続きなのだと。 そこからグロイスは、芸術と権力の関わり、権力への抵抗と権力への意志というものの二重性を暴いてみせた。 そしてこのことは、東西冷戦構造の崩壊から四半世紀以上たち、グローバルな同一化が加速する現在の 「アートワールド」においても、私たちは「権力(パワー)を自分とは関わりのない外部として対置する ことはできない」ことに何ら変わりはないのだ。 ではその「アート・パワー」とは何なのだろう。