…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_95 ~ 〈缶〉あるいは〈肉体〉 ~ 一昨日の、静かすぎる雨の朝。 そのまどろみを不意に打ち破る、鈍くしゃがれた奇声に 思わず窓のそとを見た。 大きな袋一杯のアキ缶を天秤ばりに抱えた自転車乗りのジイさんが倒れている。 すぐさま軽トラの運転手と同乗者が降りてきて、倒れたジイさんとその缶袋をかかえ起こす。 さらにその叫び声を聞き付けて、近くの若い警官までが駆け付けて来た。 ジイさんはそのあいだ何か怒鳴っていたが、どうやら怪我もなく大したことはなかったようだ。 警官はしばらく双方の事情を聴取してはいたが、やがて散会するようにして誰もいなくなった。 僕はしばらくそのまま何を見るということもなく、ぼんやりと窓のそとを眺め続けた。 そうなのだ。突然、若葉をぬらすやわらかな雨を切り裂いた、先ほどのジイさんの絞り出すような〈声〉は、 いったい誰に向けられていたのか。押しつぶされたのは、袋一杯の缶だけではない。 あらゆる慈悲と差別の不均衡によってつぶされた〈声〉も、挙げ句の果てにきょうの「糧」の証しとなった。 だから、ジイさんのひしゃいだ〈缶〉は、多くの負い目を刻んだみずからの〈肉体〉そのものなのだ。 〈奇声〉とは声にならない声という、ひとつの怨讐の声でもある。 窓のそとのすれ違い。ひとり追い越していく自転車乗りのジイさん。 もしくは、缶あるいは肉体。 窓のそとのすれ違い。ひとり去っていった自転車乗りのジイさん。 もしくは、缶あるいは肉体の転倒。 四月も終わりに近い、そぼ降る雨の朝のことだった。