…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_89 ~ ある蔓延への、感性の抵抗として (2) ~ 先月、2月11日(土)付 日本経済新聞朝刊文化面は、『アートは社会的行動』の見出しで、1月に来日した 美術批評家のボリス・グロイスを迎えたシンポジウム関連の記事。 そして3月11日(土)付には、『アートで社会変えたい』と題した、社会と関わる「ソーシャル・エンゲイジド・アート(SEA)」のプロジェクトが紹介されていた。 このところ毎月のように、『アートは…』、『アートで…』と、「アート」が盛んに取り上げられている。 いずれも、「社会の現状を変えよう」とするための「アート」の役割や活動を取材したものだ。 ではその「アート」とは、いったい何なのか。何をして「アート」と言っているのか。 それはなにもこれらの記事に限ったことではないが、現在の日本では「ART」というものが、カタカナの 「アート」という語によって消費され使用される時、ほとんどと言っていいほど、この「アート」そのものは 問われることはない。むしろその問いを留保することで、棚上げしておくことで、「アートが」語られている。誰もが分かるように、そのわかりやすさによって認知されているのだ。 たとえば、社会、経済、政治や教育、福祉、災害、自然さらに地域や文化、歴史などなど、どれもが互いに 関わりながら、すでにそれぞれの個別性において、多くの問題に直面しているのが現在である。 その上でそれらとアートは、アーティストは、そしてそれを「体験」する人々はどう関わるか、というその 関わり方、関係のしかたこそが、インタラクティブで新たな「アート」の試みであり、在りようなのだという 訳である。だが、「社会の現状を変えよう」とするには、現実の問題にスポットを当てるだけでなく、問題化 するだけではなく、同時にその現実を批判できなければならないはずだ。対話や、つながり、学び、コミュニケーションは、何も「アート」独自の方法ではない。 その上でそれらに介入しようとする「アート」は、アーティストは、そしてそれを「体験」する人々はどう 関わるかというその関わり方、関係のしかたこそが、インタラクティブで新たな「アート」の試みであり、 在りようなのだという訳である。だが、「社会の現状を変えよう」とするには、現実の問題にスポットを当てるだけでなく、問題化するだけではなく、同時にその現実を批判できなければならないはずだ。 健全で開かれた対話や、つながり、学び、コミュニケーションは、何も「アート」だけの手法ではない。 いつもアートそのものの内実は問われないまま、いかにも予めそこに「アート」は無条件に存在しているかの ような「前提」となって、ものみな社会化されて行く。だれもが何が「アート」なのか分らないまま、社会 (他者)と関係するそのプロセスや結果によって「アート」は既視化され、いつの間にか「アート化」されて いるのである。無害で現状追認にみちあふれたアートとして、コミュニケーションの道具としてのアートが、 持てはやされるのである。 「社会」をいうなら、テオドール・W・アドルノは『美の理論』の中で、「芸術は社会と対立する態度をとる ことによって社会的なものとなる」と言った。さらに「芸術にとって本質的な社会的関係とは、芸術作品のうちに社会が内在していることであって、社会のうちに芸術が内在していることではない」と言っている。そうだと するなら、「社会と対立する態度」というものを、この国の「アート」は果たして取れているのだろうか。 逆にいうなら、「芸術」が社会的なものとなるためには、社会と対立する態度をとることが、求められる ということだ。 もちろん、アドルノは「芸術」と言っているのであって、「アート」とは言っていない。もしいまも アドルノが存命で、新たに『美の理論』の日本語版が出るなら「アート」と翻訳することを許すだろうか。 僕にはそうは思えないが、どうだろう。むしろそのことを、いまの私たちは幸運とするべきかも知れない。