元村正信の美術折々/2017-01-31 の変更点


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美術折々_84
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「文化芸術」の分離の試みのために
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先日、福岡の地元紙に、ある地場企業人が福岡の都市ビジョンを提言していた。その中で、ドイツ第二の都市で港湾都市でもあるハンブルクの倉庫街の再開発を引き合いに出しながら、人口約170万人のハンブルクとほぼ
同規模の街である福岡市(約156万人)は、「今後の街づくりのコンセプト、方向性はあくまで文化芸術が柱に
なるべきだ」というものだ。

ハンブルクの倉庫街の再開発というのは、そこに「世界的な文化芸術を集め、様々な文化イベントで年300万人の観光客を集める計画」だという。古くから大陸に開かれた歴史や文化を持っている福岡市も、これからどうだ、という訳だ。

知っている方もいると思うが、すでに福岡市も2008年、9年程前に『福岡市文化芸術振興ビジョン』というものを発表している。むろんこれも、国の『文化芸術振興基本法』(2001年施行)や『指定管理者制度』(2003年施行)を踏まえてのことだ。

「文化に満ちた都市」と言われれば、だれしも異論はないだろう。すでに、わが国にも「文化芸術創造都市」を宣言したり、それによる振興策を推進する都市は多い。たとえば横浜、京都、金沢、さいたま、宝塚、岩国、
牛久、つくば市等々…。さらにこれからもっともっと増えるだろう。これらに共通するのは、「文化芸術の力による地域の活性化」である。

どれもが都市の再生、活性化そして豊かな未来へ、という国家の成長戦略の中に位置づけられたものだ。
いずれこの国は、一億総活躍社会ならぬ、47都道府県が観光立国とセットで、なんらかの「文化芸術創造都市」を志向していくに違いない。

また一方そんな傾向に一石を投じ、昨年話題になった藤田直哉の「地域アート」は、それらへの肯定と批判を
あわせ持った問題提起ともなっていた。この「地域アート」の問題は、現在の「芸術」や「美術」そして
「アート」への多くの問いを孕んでいるので、いろんな角度から今年は、時おりこのブログでも触れてみたいと思っている。

それにしても「文化芸術」というものが、これほどにもてはやされるのは何故なのか。むろん海外のリヨンやグラスゴーをはじめ、先行する欧米の文化や芸術による「都市再生」の成功例に追随してのことではあるのだが。

僕にはこれが、かつて「箱モノ」行政と言われながら、この国の隅々にまで公立の美術館が次々と設立されていった光景と、どうしても重なってしまう。今ではその美術館の多くが、「美術ならざるもの」の催しの場、
つまりマンガやキャラクター、デザインといった、それこそ拡張された「文化芸術」の展示の場に活用されて
いる。それらは、かつてデパートや他の展示施設が担っていた展覧会やイベント会場のような様相を呈しているのである。官民一体とは、あらゆる規制緩和と民営化の手法なのだ。


僕はここらで、いま人気の「文化芸術」という言葉を、真ん中から一度切断して考えてみたいと思うように
なった。切断というと荒っぽく聞こえるかも知れないが、要するに「文化」と「芸術」を分離して考えて
みよう、ということなのだ。そのことによって、もしかしたら、だれもが否定しようのない「文化」の役割とは異なる、「芸術」にしかできないことが、少しは明らかにできるのではないか、とも思っている。
それが同時に、現在の「アート」というものを、吟味することになればよいのだが。