元村正信の美術折々/2016-12-14 の変更点


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美術折々_78
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越えねば、ならなかったもの
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10月に出版された、画家の野見山暁治と福岡市の画材店・山本文房堂会長の的野恭一の五十年にわたる
交友を軸にした対談本『絵描きと画材屋』(忘羊社、2016年)。

その中で、野見山は戦前の1933年(昭和8年)頃当時「炭坑町に住んでいた中学生のぼくは、八里の
山坂を越えて福岡の街まで自転車を漕ぎつづけて、油絵具を買いに行った」と述懐している。

飯塚、田川方面と福岡を結ぶ道に、八木山峠を越えて行く旧篠栗街道があった。
「八里の山坂」とはこの八木山峠のことだ。

おなじ峠越えでも、かつて読んだ上野英信の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年)の中には、戦後1950年代の終り炭坑末期の小ヤマ圧制にあえぐ敗残を強いられた坑夫たちの姿があった。食うに食えない
坑夫たちは、餓死寸前の体力をそれでも絞り出すようにして、この八木山峠を歩いて越え福岡市まで60Kmの
道のりを、みずからの「血」を売りに行ったという。金に換えるためにの売血である。

先日、福岡からその八木山峠を車で越えた。田川市美術館での開館25周年展の『沸点』を見るためだった。
美術館に行く途中の国道322号沿いにある、1959年に建てられたという旧「後藤寺バスセンター」
(今年9月末に閉鎖)も、すでに人影はなくコンクリートの廃墟と化していた。
ここにも炭坑という〈近代〉が置き去りにしてしまった「炭都」の、癒えぬ傷跡の深さが今に残る。

炭坑と「筑豊」という日本近代のエネルギーが生んだ、その栄華と衰退。人ひとりの意志というものは、
どのように強靭であったにせよ、時に容易に押しつぶされ、踏みにじられもするものだ。
容赦ない時代の奔流は、どんな大地をも非情に洗い流して見向きもしない。
だが、それで済ませられていい訳はないはずだ。

越えねばならないもののために。
古くより、どんな思いで理由で、人はいくつもの「峠」を越えようとしたのだろう。
「峠」そのものは、何も語ってはくれないが、それを知る「人」だけがそこを越えたことを記している。