…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_75 ~ 反骨というアポリア ~ いま田川市美術館で開催中の、開館25周年記念 アーティストの反骨精神「沸点」。 僕も、同展の出品作家のひとりなのだが、この「アーティストの反骨精神」というものが、いまだよく分らないでいる。僕は、この日本でこれまで自らを「アーティスト」と称したことは一度もないし、これから称することもないだろう。また自分には「反骨精神」などまったくない、と思ってもいる一人だ。 僕も、同展の出品作家のひとりなのだが、この「アーティストの反骨精神」というものが、いまだよく 分らないでいる。僕は、この日本でこれまで自らを「アーティスト」と称したことは一度もないし、これから 称することもないだろう。また自分には「反骨精神」などまったくない、と思ってもいる一人だ。 ではなぜ出品したのか、と言われそうだが。それはただ一点、そのような反骨精神というものへの違和である。 つまり他の41名のバラエティーに富む名だたる出品作家の隣りで、僕の作品は〈異物〉たりえるか、と 問いかけてみようと思ったからだ。 反骨をいうなら、松岡正剛は「千夜千冊」の中で、青地晨の『反骨の系譜』(社会思想社、1976)に触れ 「タブーに挑めば、そこに隠れていた矛盾は自分にふりかかる。その矛盾を引きうけないかぎりは反骨者には なれない」と語っている。 つまりたんに時代に逆らう気骨さえあれば、だれもが容易に「反骨者」になれる訳ではない、と言っている のだ。そしてそのタブーとは、日本という近代そのものの矛盾であり、いまも解けぬまま放置されている 「大いなる矛盾」でもある。それほどに「反骨」というのは、やっかいな信念であり、生き死にを賭ける 孤立した態度のことなのだ。 翻って、この国に広がる「つながるアート」、「何でもアート」、そして「誰でもアーティスト」の時代。 もし「アーティストの反骨精神」というものがあるとするなら、皮肉と滑稽さに彩られることなく、見るひとの心の奥底にどう響くのかを知りたいというものだ。この開館25周年記念展 「沸点」が、それをおしえてくれる ものと、期待している。 (同展は、2016年12月25日迄)