元村正信の美術折々/2016-07-13 の変更点


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美術折々_61
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若い二人の才能
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先日、九州産業大学芸術学部写真映像学科 百瀬ゼミの学生たちによる写真展
「いち展」を見てきた。 (福岡市美術館市民ギャラリーC 、7月10日終了) 
「いち展」を見てきた。(福岡市美術館市民ギャラリーC 、7月10日終了) 

いち展の「いち」は、各自渾身の一点、自信の一枚ということらしい。

若い人たちの作品を見ていつも思うのは、才能というのはどんな時代でも次々と芽吹き続けるということだ。
ただ、この「才能」というものを保証するものは何もない。才能とはなにも名を成すだけが才能ではない。
ほとんど誰からも見向きもされずに、それでもその才能を貫き通す作家も稀にではあるがいる。その一方で、
たいした才能もないのに大作家と呼ばれている人もいるのだ。

そういった才能の多くもいつしか人知れず消え去るのも常である。それでもそんな矛盾の始まりに立ち、
まずはその才能を感じさせてくれた二人の若い作家をここで少しだけ紹介しておきたい。

まず愼容祥の『another door』。
古びた一軒家の軒先にズラリと横並びに置かれた清涼飲料水の自動販売機の数々をとらえた写真。
作家は、夜の町に眠ることなく煌々と光を放つ、この人工の色彩世界に惹かれ続ける。
日本の現在ではありふれた風景が、〈異様な光景〉となって光り輝いていることへ、彼の眼は向けられて
いるようだ。
作品に添えられたコメントを引いておこう。
「あれは別の世界とつながるもう一つの扉であるのかもしれない。
 私は自動販売機が放つ光を見て、そう思った」。

そしてもう一人。幸喜ひかりの『grow』。
天地三分の一ほどの画面下方に、左右一杯に広がる畑のような植物の群れから手首が折れ曲がった一本の細い
腕が真っ直ぐ突き出ているだけのモノクロームの写真。かつてならこれをシュールな光景、と言ったのかも
知れない。だがもう「超現実」など、どこにも有りはしない。すでに現実は「何か」から超えられてしまって
いる。それが私たち日常なのだ。彼女の皮膚感覚も、おそらくそのことにひりひりと触れているに違いない。
作品に添えられたコメントは、
「意識のはじまりなど覚えているわけもなく、体に流れているものが私を証明するでもなく、 
 空気と肌の境目も曖昧なまま、ただそこに存在する」。