元村正信の美術折々/2016-05-27 の変更点


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美術折々_55
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私たちの、「労働」の行くすえ
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先日、あるフリーペーパーの『家計簿クリニック』という欄を見ていたら、若い主婦の相談が載っていて
回答者である生活経済専門家のアドバイスの中に、こんな箇所があった。

「社会に求められる人材になるべく自分磨きをしてください」。
これからは「あなた自身の市場価値を高めることが大切」だと。

これはスゴイと思った。モノではないのだ、「人」なのである。もちろんそれは、結婚・出産を経て専業主婦
から再びそとで出きる仕事を始めようとする意欲をもった女性への励ましなのだろうが、そこには「市場価値」として機能し流通しなければならない「わたし」そのものが、心構えとしてもすでに「私という商品」の自覚を促されているということに、僕は思わずうなってしまったのである。

まあ、もちろん今の「アート」も似たりよったりなのだが。「社会が求めるアート」、「社会とつながる
アート」、「市場価値としてのアート」。 その他諸々の交流プロジェクト、芸術祭という名の公共性や行政、
国家と関わった「文化芸術振興」プログラムの数々もそうだ。これらが、社会に求められる人材としての若い
主婦の市場価値と一体どうちがい、あるいは違わないと断言できるだろうか。
主婦の市場価値と一体どう違うというのだろうか。ちがうと断言できるのだろうか。

かつて宇野弘蔵は『恐慌論』(岩波文庫)の中で、「元来商品として生産されたものではないものが商品化されている」と言っている。これは「芸術」の話しではない。つまり私たちの〈生命〉でさえ、決して商品として
生まれ出た訳ではないのにいつしか労働することによって、表現することによって、そのような生存によって、商品化されてしまっているということでもある。現に生命情報、遺伝情報さえ特許、知的財産権や所有の対象となり私有化され莫大な利益を生んでいるではないか。

さらにネグリとハートは、情報やコミュニケーション、文化的生産物といったものが「感情である」(情動的)という意味で、非物質的な生産物を創り出す労働を「非物質的労働」(《帝国》 以文社、2003年)と呼んで
いる。

このことは、どんなに肉体的で過酷だとしても、ほとんどすべての労働は未来に向けてこの非物質化をまぬがれないということだ。たえず外部化される物質的・肉体的労働、実体労働の IT化、人工知能化という高度な
〈進化〉新たな〈疎外〉によって私たちは逆に、家族、家庭や自分の「生活世界」をも非物質的に労働化し商品化するはめになってしまっているのだ。つまり休息なき見えない労働の内部化である。そこにあるのは、生活と労働と商品が切れ目なく境い目もなく続く、日常というものの光景。ここには何の不自然さもない、と言い切れるだろうか。じゃあ「芸術」はどうなのか、無傷なのか。

かの「一億総活躍社会」とは、いつでも誰にとっても「生活」そのものが、物質以上に非物質的に創造され、
生産され、労働化され、商品化され、活性され続けるボーダレスな時間の、空間の、社会の実現のことだと僕は理解している。非物質的とは、突きつめれば生存の〈究極の物質化〉である。このすべてを輝かしき「未来」というにしても、これを大きな負債もしくは虚偽と言わずして何と言えばいいのだろうか。

まったく理不尽な不当な混迷への、にぎわいの荒野で、夕暮れの路頭で、さまよっているのは
当然僕ひとりではないだろう。

こんな五月のなかで、まれに吹き抜ける、すがすがしいほどの風さえ、初夏の一瞬でさえも、
途方に暮れてはいないか。