…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_51 …………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_51 手を握り、肩を抱き、僕らはいまも、駆け出すのさ ~ 艶やかに揺れる若葉の眩しさのなかで、僕が彼女の告白を聞いたのもこんな五月だったはずだ。 つよい初夏の陽射し、水面(みなも)は穏やかで、うつむいたやなぎの小枝よりももっとそれは蒼白く、 かぼそい声だった。 佐々木 中(あたる)の小説の中に、「約束ができないものについての約束だけが、本当の約束なのだ。だから 約束してほしい。次の五月にも、五月の日にも、次の次の夏にも、あの夏にもこの夏にも、来るはずがない 夏にも、夏がもう来なくなった遥かな日の、しかしそれでもそれを夏と呼ぼう、あの、あの夏の日にも。 行こう、君と一緒なら」という美しい一文がある。(『晰子の君の諸問題』文藝2012 夏号) かつてスタンダールは、美を《幸福の一つの約束》と呼んだ。それはまさしく「約束できないものの約束」 としての美である。 「君」とはだれなのか。美とは「夏」であり、誰ともつかない君、それともまだ見ぬ「他者」のことなの だろうか。かつて僕が聞いた「告白」も、薫るほど残酷な五月の歓びを教えてくれた〈まぼろしの君の声〉 だったようにも思えるのだ。 そしていまも、「行こう、君と一緒なら」