元村正信の美術折々/2016-05-01 の変更点


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美術折々_51
 
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美術折々_51
 
手を握り、肩を抱き、僕らはいまも、駆け出すのさ
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艶やかに揺れる若葉の眩しさのなかで、僕が彼女の告白を聞いたのもこんな五月だったはずだ。
つよい初夏の陽射し、水面(みなも)は穏やかで、うつむいたやなぎの小枝よりももっとそれは蒼白く、
かぼそい声だった。

佐々木 中(あたる)の小説の中に、「約束ができないものについての約束だけが、本当の約束なのだ。だから
約束してほしい。次の五月にも、五月の日にも、次の次の夏にも、あの夏にもこの夏にも、来るはずがない
夏にも、夏がもう来なくなった遥かな日の、しかしそれでもそれを夏と呼ぼう、あの、あの夏の日にも。
行こう、君と一緒なら」という美しい一文がある。(『晰子の君の諸問題』文藝2012 夏号)

かつてスタンダールは、美を《幸福の一つの約束》と呼んだ。それはまさしく「約束できないものの約束」
としての美である。

「君」とはだれなのか。美とは「夏」であり、誰ともつかない君、それともまだ見ぬ「他者」のことなの
だろうか。かつて僕が聞いた「告白」も、薫るほど残酷な五月の歓びを教えてくれた〈まぼろしの君の声〉
だったようにも思えるのだ。

そしていまも、「行こう、君と一緒なら」