元村正信の美術折々/2016-03-02 の変更点


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美術折々_43
 

「美術」とは何か (2)
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前回、話しがいつもの「アート」批判に傾いてきた。急いでもとの問いに引き戻そう。


ある書店員が発した、「何が美術とそうでないものを分つのか」について、
先に引用した美術家は「もうあと戻りが難しいかも知れません」と答えたまま、けっきょく「何が美術なのか」 を自ら不問に付してしまった。

であるなら、無謀を承知で僕なりの答えを出してみても許されるのではないかと思う。

その前にもうひとつ大きな前提として確認しておくために、テオドール・W・アドルノの以下の言葉を引いて
おきたい。

 「芸術とは何かという定義はつねに、芸術とはかつて何であったかということによってあらかじめ決定され   ているものの、だがこうした定義は芸術が生成することによってたどりついた結果によって、たんに正当   化されているにすぎず、芸術がなろうと意図しまたおそらくなりうるかもしれない状態を含むものでは
  ない」                             (『美の理論』河出書房新社)

これはどういうことを言っているのか。

つまり「芸術とは何か」を定義しようとすれば、過去の、既成の、すでに歴史的に評価されたものをそのまま
追認し肯定するだけの価値判断となり、この地上のどこかに現れ、また生まれるかもしれない未知の「芸術」は含まれずに、度外視されこぼれ落ちてしまうことになる、という考えだ。 ここでの芸術を私たちの「美術」に
置き換えてみてもよいだろう。

だからアドルノの、この言葉が説得力をもつのは定義に対するいわば 〈反定義〉として、定義そのものを否定しつつ定義からこぼれ、すり抜けるものの状態としての未知なるものや未来の芸術を示唆し、含み持っている
からなのだ。

芸術は、美術は、けっして自明ではない。現在でさえ、たえず問い直しを迫られ、みずからを批判し、つねに
自らを越え出ることによって成り立つ表現でなければならない。

それらを踏まえた上で、「美術」とは何かについて、僕はこう答えてみたいと思う。

 「見るという主体において、その感性が抵抗しつづけることによって結晶しようとするものが、
  それ自体だけで、作品であり思考でもあるような、自律した表現のしかた」 が、「美術」なのだと。
  
  もちろんこのかぎりにおいて、あらゆる素材、方法、媒体は、未知の「美術」のために試され続ける
  ことになるだろう。

もし、そうであるなら、「美術」と「そうでないもの」 を認識することが、すくなくとも僕にとっては可能と
なる。であるなら、「美術ではないもの」とは、そのような「表現のしかた」とは明らかにことなるもの、と
言うことができる。おそらく、やみくもに多用され流布し拡散し続ける「アート」もまた、「美術」というものとはことなる表現のひとつと、理解できるのではないだろうか。

「現代美術」の崩壊は、「現代の崩壊」(近代の外部に出た「現代」そのものが解体され断片化された)に
よって必然的にもたらされた結果だ。つまり、その「現代」の崩壊によって 「美術」 そのものが課題として
なおも残されたということだ。

僕はそういう美術を、「なりうるかもしれない状態を含むもの」としてのまだ見ぬ 〈美術〉 を、あらゆる
抑圧に抵抗する「芸術」のなかに置いて考えてみたい。そして僕にとっての制作も、その作品も、
そういうものであればと思う。

私たちの足もとに今も「問題」としてあるのは、「芸術そのもの」であるはずだ。この不可解な感性の坩堝。もっともっとそれを執拗に解き、問う必要があるのではないか。
だからこそ「芸術」のみが持つ“Cutting edge”〈先鋭さ〉を〈感性の抵抗〉を、手放なすわけには行かない。
もしもそれを手放なしてしまうのなら、同時代の「芸術」というものは私たちにとって不要な、
まったく 無意味なものとなり「芸術」は過去のものとしてのみの、それこそ「世界遺産化」した古典の中で
永遠に輝く羨望の対象となり、そして芸術そのものが眠り続ける存在となってしまうことだろう。
永遠に輝く羨望の対象となり、そして同時に芸術そのものが眠り続ける存在となってしまうことだろう。