元村正信の美術折々/2016-01-31 の変更点


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美術折々_37
 

傑作と呼ばれるものがまとう幻影
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4日程前の夜だったろうか、BSで『デヴィット・ボウイ 5つの時代』という番組を見た。
もともとは2013年のイギリス・BBC 制作によるものだが、1月10日に亡くなったデヴィット・ボウイを追悼
する番組として編集、放送されものだ。見られた方もいるだろう。

そこでは「Low」、「Heroes」(1977年)といった傑作、いわゆる「ベルリン3部作」を共作したブライアン・イーノはじめ、ボウイには空前の世界的ヒットとなったあの『レッツ・ダンス』のプロデューサー、ナイル・ロジャースや、共演したミューシャン、批評家などへのインタヴューを挟みながら、その初期からの演奏
そこでは「Low」、「Heroes」(1977年)といった傑作、いわゆる「ベルリン3部作」を共作したブライアン・イーノはじめ、ボウイには空前の世界的ヒットとなったあの『レッツ・ダンス』のプロデューサー、ナイル・ロジャースや、共演したミュージシャン、批評家などへのインタヴューを挟みながら、その初期からの演奏
映像を中心に72年から83年まで「5つの時代」に分けて構成したドキュメンタリーである。

その中で誰かは覚えてないが、こんな言葉が妙にひっかかった。

 「傑作は聞き手を選ばないからむずかしい」


この含蓄のある言葉の真意は憶測するしかないが、確かに「傑作」という評価にはある種のむずかしさがある。

傑作といわれる作品にはそこに在る、むずかしさを隠してしまう力があるのか。それはロックやその他の音楽に限らず「傑作」といわれる「作品」の位相をうまく言い当てているように思えた。

本質的にあらゆる作品は、どのような作品も、聞き手を、見る者を、ある意味、限ることによって、特定する
ことによって始まるのだが、「傑作」として一般化し流布していく作品にはこの〈限り〉が取り払われる。
逆にいえば、対象を、作家を選ばない聞き手や見る者たちが、好奇の奔流となって押し寄せてくる。
「傑作」と呼ばれるものが、必然的にまとってしまうものである。

つまり傑作は、聞き手や見る者たちの無数の欲求を、幻想を、錯誤を吸い寄せ、まとうことの出来たもののみが「傑作」に値するともいえるのだろうか。先のコメントはそう言っているように、僕には思えたのだ。

一方そんな傑作について、美術収集家で美術の同伴者でもあったガートルード・スタインは、こう言っている。

「すべての傑作は何らかの醜悪な面をもって生まれてきた」と。

そう、この「醜悪な面」こそ、まず私たち聞き手が、見る者が、もっとも嫌う、作品を拒絶する最初の態度なのだから。だが本当の傑作には、理解しがたいさや分らなさが潜まずして何があるのだろうか。
醜悪さをもつ傑作の発見とは、じつはむずかしいものだ。傑作は人知れず生まれ葬り去られもする。しかし傑作が人を限っている訳ではない。

さらに「醜」というならアドルノはこうも言っている。
「美は醜から発生したものであって、その逆ではない」

傑作とは美醜渾然と絡んだまま高みに到るものなら、私たちは本当の傑作のみがもつ〈みにくさ〉をこそ、
知らねばならないはずだ。

「傑作は聞き手を選ばないからむずかしい」という先の言葉は、傑作というものがベールのようなものにくるまれて、当初の作品がもつ「醜悪さ」を、美しくも異なる次元に聞き手自身が連れ出してもしまうのだということを、ひと言で語っていたのかも知れない。

ボウイもまた、そんな〈傑作〉というものを残して逝ったひとりなのだろう。