元村正信の美術折々/2016-01-19 の変更点


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美術折々_35
 

金(かね)と芸術
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前回のブログの最後のあたりで「食べていけること、自立すること」と書いた。
そのことをもう少し引きずってみたい。

じつは私たち多くの人間にとっては、このことに一生を費やしそのために日々暮らしているとも言えるくらい、またそのことで時に争い生死を分けるほど、悩ましい問題なのではないだろうか。

ましてや金に換算しにくい、必ずしも効率や数値を優先しない芸術というものを志す若い意欲的な作家や、芸術に関わる仕事に就きたいと思っている人には、いっそう切実でさえあるだろう。(と言っても今の美術館や博物館などは、より集客「数」を高めることが求められ、それによって評価格付されもするが)

ただご存知のように「芸術」は、商品としての交換原理そのものが全てではない。金になることも多々有り得るが、むしろほとんど金にならないことの方が多いというゴミにも似た広大な裾野を有する世界であり、「芸術」を数値化すればするほど、そこからこぼれ落ちる無数の、無限の「価値」を産む世界でもある。

だからこそ、自己への「贈与」という領域に、一生を狂わすほどの、芸術の魔性は棲みつきもするのだ。
ちょうど今の日本の「アート業界」は、国家や行政、企業と一体となって、皮肉にも芸術への願望を助成し、
芸術で「食べていける」夢をいっそう掻き立て、活性化してくれているのかも知れない。

だがここには、独特の大きな強迫観念が渦巻いているのを知ることも必要だろう。この資本主義社会では、自らの労働を商品化することによって、つまりなんらかの労働、仕事、活動を提供してお金を得るというシステムであるということを。芸術(作品)もまたそこから逃れることはできない。その意味で芸術も絶えず商品化され、一方であらゆる商品もまた芸術化される可能性を持っている。その果てには「芸術」と「芸術でないもの」との境界の曖昧さが極大化され、あるいは無化されてしまう。

もっと言ってしまえば、芸術は、いまや芸術である必要もないものに、同化する誘惑や悦びに打ち震えているのではないか。芸術の香りがするのみの「別の何か」に、私たちは貴重な代価を払い、また心をも満たしてくれるものに、つまり「芸術のようなもの」に感動する心が、芸術でないものを、芸術の中に歓迎するのである。
こうして芸術は、芸術自体の崩壊という問題を抱え込むことになる。

もし、いやそうではない、芸術は確として存在するといわれるのなら、何が「芸術」なのかを、教えて欲しい。「芸術でないもの」とも違う、何ものにも代置しえないものとしての「芸術」とは何か。「芸術の自律性」とは一体なんなのかを、教えて欲しいのだ。

本当に「芸術」で「食べていけること、自立すること」とは、芸術を道具化せずに、たとえ商品化されても
なお、その商品を批判できるかどうか。「商品」を批判できるということは、自らの「作品」を批判できるか
どうかである。それは同時に他者からの批判にも自らを、作品を、さらし開くということでもある。

それを承知で、自ら金を稼ぎ生きていくことが、「芸術」で《食べていくこと、自立すること》ではないのだろうか。僕はずっとこれまでそうして制作を続けて来たし、これからもそうあり続けたい、と思っている。

芸術が、芸術〈それ自体〉を必要とするかぎりにおいて。