*美術折々_11 美術折々_11 末藤夕香 展 五月のつよい陽射し。 初夏の心地よい風とともに、目にも鮮やかな新緑溢れる季節の中をぬって、久しぶりにみた末藤夕香の個展は、 そんなまばゆい緑から抜け出てきたような、艶のある何種類もの濃淡の異なる緑の色糸にくるまれた、11個の 「オブジェ」を床や壁に配したものだった。 それらをいま僕は、仮にオブジェとよんでみたのだが、これらの中身は、たぶん椅子や腰掛け、それに木枠や 雑貨のようなレディ・メイド、もしくは手製のものだろうか。つまり多くは既製品を、無数の束ねた糸で被い 包み込むようにしてその「原型」を隠したものだ。 原型を隠すとは、それが持つ本来の機能や用途を一度閉ざすこと。それでも形そのものが歪められているという訳ではない。だから見るものは、糸におおわれた奇妙な「品々」に親しみとも困惑ともつかない感情を抱くことになる。 それは、「家具か小道具にも似た観葉植物」と声にしたくなるものだった。複雑な感触とでもいうものがここ にはある。一見無造作に配置されたかにも見えるそれらのあいだに、緊張感といったものはない。むしろ誰かの「部屋」にでもいるかのようなある種の安堵感。この「誰か」とは、むろん末藤夕香のことである。もちろん 僕は彼女の部屋のことなど知るよしもないし、また実際の部屋であるはずもない。 時間を少し過去に戻すと、ある時期を境にこの作家は、それまで取り組んできた彫刻作品から〈極私的空間〉へと転出している。これは僕の憶測だが、末藤夕香は自分の〈居場所〉を仮構しながら、自らの他者、世界という外部を、そこに取り込むことで自身の〈傷〉を見つめ直そうとしてきたのではないか、と思うのだ。 もともと彫刻家として出発した初期から用いてきた石膏、樹脂、鉄、木といった素材から、やわらかな布、綿、壁紙や私的アンティークの数々、そして糸にいたるまで。すでに25年が経っていた。 なんどもフランスと福岡を往復しながら、彼女は何を見つめ考えてきたのだろう。 僕は早くからこの作家の、彫刻家としての才能に注目してきたものだ。彫刻から非-彫刻としての極私的空間へといたる展開。近年の作品を見ていると、多分に手芸的でありながらも〈非-手芸としての物〉の可能性、と でもよんでみたい願望に駆られる。 末藤夕香という作家は、いまも変わらず鼻っ柱がつよいのだろうか。 かつてボルドー郊外の果てしなく続く葡萄畑の中を、愛車プジョーのハンドルを握りしめ、まっすぐに風を切り 猛スピードで疾走していた作家の姿が、いまも重なる。 鮮やかな新緑は、なおも作家を励ましてくれることだろう。 われに五月を。 同展は5月24日(日)まで。 #lightbox(suefuji_s176.jpg,,70%) ~ ~