*美術折々_06 美術折々_06 六本松遠景 きのう、思い立ち久しぶりに、六本松まで歩いた。 この頃、この街へ行くのは、もっぱら蕎麦を食べる時のみになってしまった。 昼前の開店早々に、暖簾をくぐる。店の奥からは、てきぱきとした仕込みの音が響く。 きょうは島根の酒、冷えた「王禄」を飲みながら、もりそばを頂いた。 そば湯が出てくる頃には、もう昼時だ。 さあそろそろ、席が埋まっていく店を後にしよう。 そうしてそこから別府橋大通りに出て東に向かえばすぐ、かつての九州大学六本松キャンパス (旧九大教養部)の、大きな空洞のような跡地が広がっている。 地下鉄七隈線六本松駅辺りの交差点からは、この空地越しに谷から続く輝国の丘陵まで 遠く見渡すことが、今なら出来るのだ。いまならと言ったのは、もうすぐこの跡地には大型マンション、 複合施設が立ち、さらに裁判所、検察庁などの移転も控えている。いわば、つかの間見晴らすことのできる 「空洞」を、僕たちは他人事のようにして目撃していることになる。 ここには、かつての学生達の賑わいも、あの闘争も、催涙弾の硝煙に滲んだ正門前の街の光景も すでにない。古い記憶や感傷など何程のものか、とでもいいたげに。しかも人間は相変わらず貪欲である。 新しいプロジェクトは、別種の「賑わいを創出しよう」と粛々と進行しているのだ。 なぜいつも、なんの謂われもなく、「風景」というものは、こうして唐突に変貌せねばならないのか。 たとえ〈近代〉というものが消滅したにせよ、解体も再生も、さらなる崩壊の後も、このようにして 延々と風景の「創出」は繰り返されて行くのだろうか。 その傍らにはいつもひとり、ぽつんと置き去りにされている、わたしたちがいる。 遠景とは、こうして眼の前に広がっているにも関わらず、同時に幾度となくわたしたちじしんが 葬り去ってきた、そしてこれからも生まれては葬り去って行くであろう、 眩しすぎる未来の光景のことかもしれない。 ~ ~