元村正信の美術折々_bak のバックアップ(No.14)


 美術家・元村正信氏に、アートスペース貘で見た展覧会の感想や
 折々の事などを、美術を中心に気の向くままに書いてもらいます。    artspacebaku

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 美術折々_08
 

 柴田高志個展 「回帰」

 
 これでもかこれでもかと、渦巻くように繰り返される細密な線描画。
 凝視すればするほど、気の遠くなるようなその描線の行方に、時として見る者は自らの視線を失いかける。
 それはこの作家が作画について語っているとおり、「エネルギーの塊のようなものに『不明』を纏わせ」て
 いることと無関係ではないようにも思う。つまり、絵というものは緻密であればあるほど、そこに見る者は
 感嘆するという傾向があり、それに対してこの作家はどこかでそれを意識的に遮断しようとしているのでは
 ないだろうか。

 アートスペース貘での初個展から7年。これまでその作品の多くは、墨を使い白い紙にペンで描いてきた。
 だが墨らしい滲みやぼかしはむしろ少なく、今回、蝋を垂らすなど新たな試みも見られるが、やはり鋭い
 ペン先から繰り出される「線」に執拗に拘ってきた作家と言ってよいだろう。
 すでにドローイング作品として賞を得るなど、その評価とこれまでの活躍はよく知られるとおりだ。

 では、柴田高志はいったい何を描こうとしているのだろうか。この不気味な、奇怪な、捉えどころのない
 画面。いや、もっと引き付けて読むなら、人や生き物の艶かしさ、底知れぬ妖しさ。そしてこの世のものとは 思えぬ異形のかたち、異界のものたちのうごめき、さもなくば修羅幻想の妄執なのか。

 だが作家は、そのすべてにノンという。であるなら、私たちはこの絵の前で、線の前で、逡巡し続けるしか
 ない。

  かつて小林秀雄は、『ドストエフスキイ』の中で、「ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの
  奇怪さ」だと言った。さらに「ドストエフスキイのいわゆる不自然さは彼の徹底したリアリズムの結果で
  ある、この作家が傍若無人なリアリストであったことによる。外に秘密はない」とまで言い切っている。

 このような文をあえてここで引いたのは、唐突に過ぎるかもしれない。
 しかし、ここには何か柴田高志の、作品の「内密」に触れるものと重なるものがあるような気がしたのだ。
 もし柴田高志の絵をひとりの空想からではなく、うごめく「現実そのもの」から生まれてくる奇怪さであると
 するなら、この若い画家に見えているのは、美しくも醜悪な線描画として現れてしまった〈現実の相貌〉だと
 は言えないだろうか。それが、彼の絵の「わからなさ」の魅力なのかもしれない。
 
 5月からは東京にも新たな拠点を持つという。いっそうの飛躍を期待しよう。
                                                 
                                     同展は4月12日(日)まで。

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 美術折々_07
 

 Where have all the flowers gone?

 
 桜の花咲く季節に、多少ともこの国に暮らしたことのある人なら、淡い色に染まった野山や、ざわめく街角
 にも訪れた春とともにそこで味わう悦びや苦みを、誰しも少なからず知っていることだろう。

 そして満開の桜を愛でる人の波もまた、花の数に負けてはいない。
 毎年花見客で賑わう舞鶴公園、福岡城跡のはずれ、東側の石垣下。旧平和台球場跡裏に
 ひっそりと建つのが、福岡市の鴻臚館跡展示館である。

 この展示館は1995年、ちょうど今から20年前にできている。
 建物の南東に広がるだだっぴろい敷地を囲むように土手が残っているのだが、かつてはその土手に沿って
 大きな桜の並木があり、桜の頃になると僕は毎年ひとりここへ来て、ひんやりとした花冷えの土手に
 腰をおろし、その下のテニスコート(これも今はない)に散りゆく花びらを眺めていたものだ。

 この光景は、鴻臚館跡展示館ができる前、つまり20年以上前のことである。
 でもなぜ、それと同時にあの大きな桜の並木はことごとく引き抜かれねばならなかったのだろうか。
 開発と遺跡発掘は、同じ硬貨の両面だと、ある専門家に教えられたことがある。

 花の美しさというものに、異を称える人はおそらくいないだろう。
 だが風景の変貌とは、ある日突然おとずれるものである。満開の桜とて例外ではない。

  もろともに我をも具して散りね花
  憂き世を厭ふ心ある身ぞ       西行

 これは 「私も、この世を嫌に思っている。だから花よ、私を連れて一緒に散ってくれないか」 という
 意味の歌らしいが、
 ここには歌人西行の、時代に対する違和、そして生と死への、壮絶な覚醒が込められてはいないだろうか。
 
 かつてピーター・ポール&マリーがカバーした『花はどこへ行った』という歌の最後に、
 「いつになったらわかるのだろう」というフレーズがあるが、「憎悪の連鎖」を安易に嫌悪し批判する
 私たちに、一体、わかる、という日がいつか来るのだろうか、とも思う。
 
 満開の桜が、いともたやすく喪われてしまわない、そんな春であるように。
 
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 美術折々_06
 
 
 六本松遠景

 
 きのう、思い立ち久しぶりに、六本松まで歩いた。

 この頃、この街へ行くのは、もっぱら蕎麦を食べる時のみになってしまった。
 昼前の開店早々に、暖簾をくぐる。店の奥からは、てきぱきとした仕込みの音が響く。
 きょうは島根の酒、冷えた「王禄」を飲みながら、もりそばを頂いた。
 そば湯が出てくる頃には、もう昼時だ。
 さあそろそろ、席が埋まっていく店を後にしよう。

 そうしてそこから別府橋大通りに出て東に向かえばすぐ、かつての九州大学六本松キャンパス
 (旧九大教養部)の、大きな空洞のような跡地が広がっている。
 地下鉄七隈線六本松駅辺りの交差点からは、この空地越しに谷から続く輝国の丘陵まで
 遠く見渡すことが、今なら出来るのだ。いまならと言ったのは、もうすぐこの跡地には大型マンション、
 複合施設が立ち、さらに裁判所、検察庁などの移転も控えている。いわば、つかの間見晴らすことのできる
 「空洞」を、僕たちは他人事のようにして目撃していることになる。

 ここには、かつての学生達の賑わいも、あの闘争も、催涙弾の硝煙に滲んだ正門前の街の光景も
 すでにない。古い記憶や感傷など何程のものか、とでもいいたげに。しかも人間は相変わらず貪欲である。
 新しいプロジェクトは、別種の「賑わいを創出しよう」と粛々と進行しているのだ。

 なぜいつも、なんの謂われもなく、「風景」というものは、こうして唐突に変貌せねばならないのか。
 たとえ〈近代〉というものが消滅したにせよ、解体も再生も、さらなる崩壊の後も、このようにして
 延々と風景の「創出」は繰り返されて行くのだろうか。
 その傍らにはいつもひとり、ぽつんと置き去りにされている、わたしたちがいる。

 遠景とは、こうして眼の前に広がっているにも関わらず、同時に幾度となくわたしたちじしんが
 葬り去ってきた、そしてこれからも生まれては葬り去って行くであろう、
 眩しすぎる未来の光景のことかもしれない。

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 美術折々_05
 
 春の雨

 どんよりとした灰いろの空から降る、肌をぬらす柔らかな雨。
 こんな午前の、遅い朝でも人影はすくなく、水辺もひときわ静かである。
 濡れ落ち葉を掃く箒の慣れた音だけが、耳もとに届いてくる。
 
 アスファルト。不意にひとりの男から行く道をさえぎられた。
 いま撮影中なので、少しだけお待ち下さいという。通行止めだ。
 どれ位待つのか、一瞬尋ねたかった。
 すると、目の前をコートを着たモデルらしき若い女性が傘も差さず歩いていく。
 すぐさま、「カ-ット!」、「もう一度!」の声が響く、そして通行止め解除だ。
 「すみませんでした」と、男がこちらにひと言。
 何かがぎこちない。
 
 まだみな目覚めていないような、もの静かな雨の撮影現場。
 映画ほど機材やスタッフの数も大袈裟ではないので、
 何かのコマーシャルかプロモーションものなのだろうか。
 まさかこんな雨の朝を待っていたのか、いやいや、たまたま今朝が雨になった
 ということだろうと、独り言ちて再び歩き始めたのだった。
 
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 美術折々_04
 
 逆転への意志

 塚原舞加の初個展 「残り香」は、紙にインク、アクリル、鉛筆などによる
 ドローイング的絵画ともいえるモノクローム作品。

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 3月30日より同画廊で個展予定の、柴田高志作品との類似性を指摘するのは
 たやすい。だがむしろ、塚原舞加の作品の方が、絵画性がより明確に表れている。
 また柴田高志ほど細部への執着や偏執な描線の繰り返しに重きはなく、
 何を描くべきか、なにを描こうとしているかの意識が、こちらによく伝わる絵であり、
 細い線も、滲みも、すべてはそのために用いられているのだ。

 ではそこにうごめいているのは、一体何だろう。人工と自然の混血。
 エイリアンか、モンスターか…それとも無機物か。いや無論具体的な何かでは
 ないはずだ。未来とも現在ともつかないこの地の光景に、それらが異物のように
 交じり、しかも確かに眼球をもつ 「生き物」として点在し、その姿を潜めている。

 この若い作家はいう。
 「血と内蔵までも地の引力に沿い、生きるための圧を受け入れている。
 果してそれでよいだろうか。その全ての認識を根本から覆したい。
 真実を知る為に」と。そう、この小さくも、そして痛切な、逆転への意志。
 
 だが、真実というものは容易には知りえない。
 僕たちは、目先の適応関係に悩み振り回される必要などないはずだ。
 まさにうごめくような、〈この世界との不適応関係〉の中にこそ、本当のことが
 埋もれていることに気づくべきではないか。
 
 僕たちの、日々の危うい認識への懐疑として、自問として、この個展を
 見てみてはいかがだろう。

                                同展は3月15日(日)まで。

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 美術折々_03
 
 大塚咲×夕希 展_のこと

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 前回、じつはほとんどこの写真展のことに触れていないのに気づいた。
 つい少年との出会いに気を取られてしまったようだ。
 だから、この展覧会「MEME」のことも少し。
 
 ふたりの女のみを被写体にしたフルカラー作品。
 それぞれのセルフポートレートが含まれてもいるが、
 写真家・大塚咲の写真展といってもよいだろう。

 濃密な吐息、噛みころすような声、火照った肌に滲み出す汗、虚ろな瞳…。
 じっとりと湿った、粘着質のものがそこかしこに溢れている。
 すべては終ったのだろうか。
 
 不在の女、あるいは男。ふたりの女に迫ったものの性そのものの不在。
 いや、ここでは性の根拠そのものが見えないのだ。

 朝霧にくるまれるように、いまも雨は降っている。
 水辺の情景はすでに霞んでいた。
 ついさっきまで愛したひとの姿が見えない。
 
 ふたりの女はいったい何を想い、旅を続けたのだろうか。
 冬も終る。そんな雨も、やがてあがるだろう。

                          
                     同展は3月1日(日)まで。 
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   美術折々_02

 
 大塚咲X夕希 展

 ちかい春の風がまじった昨夜とは違って、寒かったきょうの昼下がり。
 屋根裏貘のカウンターで、初めて来たというひとりの少年と出会った。
 
 彼はひとつ置いた左の椅子に腰を下ろすなり、「ブラック」といった。
 懐かしい響きだ。
 ブラック。もちろんコーヒーのことであるが、
 つまり砂糖はいらないという注文のしかたである。
 こんなオーダーの仕方ができる少年が持つ、懐かしさ。

 そのまえに、僕は隣りの貘のギャラリーで、130点程もあろうかという
 ふたりの女の吐息に充ちた生々しい写真の「熱」に接したばかり…。
 初めて会ったこの色白の華奢な少年と、彼が吐いたブラックのことばの響きを、
 当然その写真を見てきたであろう彼と、女たちの艶かしさを
 重ねずにはおれなかたのだ。

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  美術折々_01

 はじまりに

  今回から「貘」のサイトの中に『元村正信の美術折々』というメニューのひとつを任せて
 頂くことになった。「日記」ではないので、毎日更新という訳にはいかないが、
 アートスペース貘で毎月見る展覧会の中からの感想を中心に、ギャラリー右奥のカフェ
 「屋根裏貘」のカウンター越しに触れた人間模様、あるいは日々の思索や好きな散歩の
 折々にすれ違った光景など、時には写真も交えながら、気の向くままに不定期ではあるが
 すこしづつ綴って行こうと思っている。
 
 たまには、息抜きがてら覗いていただければ幸いです。
                                          元村正信