元村正信の美術折々/2021-04-11 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_329
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芸術の空洞の拡がり

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絵を描くということが揺らぎ始めている。これは僕の告白ではなく「絵を描く」という概念もまた拡張しているという意味なのだが。もちろん僕だって絵を描いているから、このことと無関係である訳ではない。そもそも人類が、見た何かを「描く」という行為を自覚し、やがてまたそれを対象化できるようになって「絵」としての自覚が芽生えて「絵を描く」ということが一体的に意識化されてきたと言える。もちろん「芸術」以前の段階のことではあるが。

人類は、はじめに生き物の血で何かを描いていたと僕は推測している。後は鉱物や植物の顔料や染料が、やがて「絵の具」というものを生み出していったことは知られる通りだ。冒頭で、絵を描くということが揺らぎ始めていると言ったのは、絵そのものよりも「絵の具」であり「描く」ことの拡張であり、つまりデジタル化する絵画の趨勢のことなのである。

いやどのようにデジタル化しようと、生身の人間が自分の手で直接絵の具を使って描くということは無くならない、と言われるだろう。確かにそれは無くならないと思う。でもいま幼児でさえクレヨンで絵を描かされる機会はあっても、その一方ではタブレットの描画アプリで絵を描いている。むしろこの方が自然に身についてくるだろう。何しろスマホであやされて育てられていることを見れば「絵の具」や「絵」を同時にデジタルとして経験していること位は予想がつく。

この子たちが芸大や美大に行く頃には、VRや3Dプリンターで絵画を描き、彫刻をつくることはもう当たり前になっていることだろう。今でさえそんな若い作家たちもいるのだから。だから絵の具ひとつ取っても、物質系と情報系に使い分けられるようになるに違いない。あるいはそれらが混在したメディア表現として。

このように絵の具が変わり描くことも変わってくるのなら、おのずと「絵画」も変わってくることだろう。現在の美大生や若い作家たちの作品を見ていると、本当に好きなように描き作っているなあと思う。それは何でもありというより、芸術の崩壊を空洞を生きるということはこういうことなのか、と思わせる作品なのである。多様といえば多様なのだが、崩れていながらなおも何かを試行しなければならない自由さと息苦しさ。

現実と仮想の世界が別々にあるのではない。すでに現実は、いっそうデジタル化され仮想化され腐蝕されているのである。それが私たちの〈現実〉なのである。絵を描くという事ひとつ取っても、物質は情報によって変質しているから〈芸術〉もまた見えているほど「芸術」ではないのだ。芸術の空洞の拡がりが、あたかも現実の芸術のように感じられてならない。つまり錯覚が。