元村正信の美術折々/2021-02-17 のバックアップ(No.1)


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美術折々_320

アートの「ニューカマー」というリアリティ


先日、久し振りに美術手帖(2月号)を読んだのは、じつは特集の「2020年代を切り開く ニューカマー・アーティスト100」を見るためだった。わずか4年2ヵ月振りでの同誌「ニューカマー」企画なのだが。改めて前回 2016年12月号の「あなたの知らない ニューカマー・アーティスト100」もこの機会に併読してみたが、そこに時代を画するものや断絶といった変化はなかったようだ。むしろ、より目立ってきたのは「アート」そのものの分解であり分化であり分散であり、何より高度化する現実への適応の苦渋だと僕には見えた。だったら芸術でもアートでなくてもいいのではないかという〈別の希望〉を、僕は感じた。

前回の企画の背景には、美大で様々な芸術を学びながら「芽が出る前に制作を断念してしまう学生が多い」という教師たちの声があったからだという。では今回、そのことに変化はあったのだろうか。僕からすればそんなことを案じる前に、教師は学生たちに対して〈制作を断念する〉ということがどういうことなのかを、まず話して置くべきだろう。せっかく美大まで出て、芸術を制作を思考を断念するのは、もったいないということなのか。そんなことは、どんな時代でもあったし、これからだっていくらでもあるだろうに。

若い人たちが学校や研究所といった専門機関で学ぶということは、ひとつの切っ掛けにすぎない。そこからどんな方向に進み何を志すのかはいつでも悩みであり自由でもあるのだ。
「生業としてのアーティストにリアリティーを持てる学生が減っている」というのは当然だろう。なぜならそれは生業しかりアーティストしかり、そのどちらもが揺らいでいるからだ。つまりどんな専門性も高度化していながら、一方では職業というもののは複雑化し錯綜し、ひとつの仕事という専門性は他の専門性とクロスし融合しなければ立ち行かない時代だからだ。

ただ「アーティスト」と名乗るだけでその「リアリティー」を実感を、得られる訳ではない。むしろアーティストと言うなら、まずアートの欺瞞を見つめそれに反応すべきだろう。そこで初めて適応も決別も抗いも見えてくるはずだ。「ニューカマー」とはそういうものではないのか。

そもそもここで〈誰が〉推薦者を選びまた作家を選ぶのか。では選ばれなかった推薦者がいて見えない作家がいることは、また別のそれ以上に多くの「ニューカマー」が隠れているということだ。だから「アーティスト100」というのは当然、浮き出された氷山のほんの一角であることだけは踏まえておくべきだろう。これらが日本のアートの「見取り図」になるかどうかは、賢明な読者・見者の〈眼に〉ゆだねるしかない。