…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_313 ~ 疾走し振り切ろう ~ この正月は、あるきっかけもあって「美と残酷」について改めて少し考えていた。 「美」もまた起源をたどることなど出来ないが、それは初期人類のそこかしこにもあったはずだ。 人間の文明がそれにどう目覚め自覚し表現としてきたかは、多くの遺跡や遺産を見れば瞭然だ。 それに比べ「残酷」のほうの起源は美への目覚め以前であろうことは推測できる。 なぜなら生きて行くことそのものが、自然の猛威や生き物、異物への恐怖や怯えでもあったからだ。 いわばそれが残酷というものであったから、おそらく悦びや安堵はその後に訪れたに違いない。 それでも美は、その辺の窟や水辺そして流れた血の跡にもあっただろう。 つまり残酷の匂いのするところには、すでに美は、動物や人の骨と共にころがっていたのだと思う。 ただ残酷には本能的に反応していただろうが、未明の美に気づくには残酷が去ったあとの空白とでもいうべき 安らぎや、かたわらに咲く花の香り、歓喜の余韻が収まった白昼のうたた寝、夜の闇のほのかな灯がもたらす 陰影など、いくらでもあったこはずだ。 そうして、21世紀のいま2021年にもなった。 現在の私たちは、余りにあふれた「美の多様性」と「残酷の無底性」を享受し利用している。 何が美で醜で、なにが残酷で残酷ではないのかさえ曖昧である。 そう。ほとんどが極私的で利己的であるだけで充分なのだ。それらが美でも残酷でもいいのだ。 そこでは美も敵対的ですらある。快だけでなく不快も美の根拠であり、何を美とするかしないのかも いくらでも対立的に語られもするだろう。美と残酷は紙一重どころか、いまや「美と残酷」は同義でさえあると僕は思っている。 そのように私たちの生活も変わった。そして芸術もそのように変わったのだ。 そんな美と残酷を相手に、私たちの美術は芸術はどのように振る舞えるのだろう。 すでに私たちはコロナを突き抜けている。ただコロナが追いかけてくるだけだ。 どこまでかは分からない。だがこの姿勢で疾走し続けそれを振り切るしかない。 正面突破でいい、それしかないんだ。