元村正信の美術折々/2020-08-23 のバックアップの現在との差分(No.1)


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美術折々_292
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動揺の渦が

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突然ですが。何が芸術を芸術たらしめるのかと聞かれても。
これに答えるのは容易ではない。
何よりそれは、芸術の定義できなさにあるのだが。

じゃあ。それなら引いてみよう、ということで。身近なところから始めるのがいい。
まずそれぞれ自分が思い浮かべる「芸術」と思うものがいろいろあると思う。
そこから〈芸術でなくともよいと思えるもの〉を削除してみる。
まずそれぞれ自分が思い浮かべる「芸術」と思うものがいろいろあると思う。そこから〈芸術でなくともよいと思えるもの〉を削除してみる。

これはたくさんあればある程よい。芸術がだんだん絞られてくるからだ。
考えればかんがえるだけ、芸術というものの曖昧さが露わになってくるだろう。
これはたくさんあればある程よい。芸術がだんだん絞られてくるからだ。考えればかんがえるだけ、芸術というものの曖昧さが露わになってくるだろう。
だがその反面、じぶんが何を「芸術」と言っているのかが少し分かってくる。

しかしそれでもまだ恣意的判断にとどまるから、もっと踏み込む必要がある。
ではどうするか。それは、これまでの〈芸術〉を削除してみることだ。
そう。これまであった古典もアヴァンギャルドも、今どきのアートも。
そして何が残るか。それでは何も残らない? そうかも知れない。
そう。これまであった古典もアヴァンギャルドも、今どきのアートも。そして何が残るか。それでは何も残らない? そうかも知れない。

でも「芸術を芸術たらしめる」ものというのは、芸術が何もないことにまず気づく必要がある。
なぜ「芸術がない」と思えるのか。それは芸術ではない、芸術以外のものが、自分の中で分かっているからだ。そう考えると少なくとも何が芸術なのかが、朧気ながらも見えてくるに違いない。

しかし問題はここからなのだ。芸術があるとしても。なぜそれが「芸術」なのか。芸術と言えるのか。芸術への不安は、未知なるものへの不安でもある。だれひとり認めないものを認めようとする時の、激しい揺らぎ。

「芸術を芸術たらしめる」のは、そんな動揺の渦が、抵抗の痕跡として形になるかどうかだと、僕は思う。