元村正信の美術折々/2020-08-09 のバックアップ(No.1)


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美術折々_290

思いもつかない日まで


先日SNS上で、差別というものに非常に敏感で良識もあるであろうある日本の学者が、こんなことを言っているのを読んだ。
「差別する心を持つ事は自由ですが、それを実際に人にぶつける事は自由ではありません」と。
フォロワーは1万人以上で、4000名を超える人たちがこれにイイネをおしている。

僕は驚いた。では「差別する心を持つ事は自由」なのか。だれでも「差別する心」を持っていいのか。学者というからには、おそらく大学かどこかで若い人にも教育する立場にあるに違いないだろう。

つまり差別する心や意識はみんな持っていいけれど、それを行使してはダメですよと言っている訳である。
実際に人にぶつけさえしなければ、差別しなければ、差別する心は認められ自由なのだろうか。そこには人間としての疚しさの微塵もないのか。

これは差別発言と言われるものや、そのような行為よりもっとその根底において差別的ではないかと僕は思う。どうだろう。標語のようなスローガンで「差別をしない、させない」ではないのだ。

むしろ差別ということすら思いつかない心や意識のありようがあるはずだ。
たとえばレイシズムはどうだろう。人種差別主義。人種で差別することへの批判は正当かも知れない。だが白人優位は不問に伏したまま人種間の違いは肌の色や血統、生い立ち、境遇によって差別されてはならないと、いつも主張される。だがここにも「人種の違い」など目に入らない、まったく問題ではないではないかという視点のありよう、人種を持ち出す以前に人間であるという心や意識が欠けている。

先にあげた学者が、差別を批判し否定しながら「差別する心」を自由だといって容認する。これは矛盾というよりも欺瞞そのものだ。

哀しくも差別というものが永遠になくならないのは、差別どうしが差別によって差別化されているからだ。差別の円環構造がそこにあるから。

ほんとうに差別がない世界は、差別など知らず思いもつかない人間で満ちあふれる日まで、そして思いも付かない日まで待つしかない。