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美術折々_287
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世界は一変したのだろうか
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あるひとが「社会に貢献しない人間が社会で自由に生きて何が悪い」と思います。
そして「社会のために人間があってはならない」ともつぶやいていた。
あるひとが「社会に貢献しない人間が社会で自由に生きて何が悪い」と思います、そして
「社会のために人間があってはならない」ともつぶやいていた。
自由がかんたんではないにしても、僕もその通りだとおもう。どこまでも人間あっての社会であり、
間違っても社会あっての人間ではない。ではアートはどうだろう。
なぜこれまであれほど、社会とのつながりを望み、関係を持とうとし社会化してきたのか。
僕もその通りだとおもう。どこまでも人間あっての社会であり、間違っても社会あっての人間ではない。
でもなぜこれまであれほどアートは、社会とのつながりを持とうとし社会化してきたのか。
1998年にニコラ・ブリオーが発表した『関係性の美学』に端を発したとされる「リレーショナル・アート」
1998年にニコラ・ブリオーが発表した『関係性の美学』に端を発したとされる「リレーショナル・アート」。
いわゆるソーシャリー・エンゲージド・アートの影響はいまだ強くある。だからその流れを追随してきた
アートの世界も新型コロナウイルスによるパンデミックを境に、それ以前と以後とでは後戻りできないほどの
変質を余儀なくされるのだろうか。
変質を余儀なくされたのだろうか。アートは一変したのだろうか。
ここで再びアドルノを呼びだそう。アドルノは言う。
「芸術にとって本質的な社会的関係は、芸術作品のうちに社会が内在していることであって、
社会のうちに芸術が内在していることではない」
社会のうちに芸術が内在していることではない」、
「芸術自体の社会的本質は芸術にとっても隠されたもの」(『美の理論』河出書房新社、2007)
にすぎないということだ。
つまり芸術にとって「社会」というのは、つねにその内に潜在しているいうことだ。
つまり芸術にとって「社会」というのは、つねに芸術の内に潜在しているいうことだ。
芸術というものは、すでにそういう社会を内包しているのである。
あるひとがつぶやいていた言葉は、そのままアドルノが語った芸術と社会との関係にも当てはまる。
社会のために芸術があってはならないと。これは現在でも生きている。
新型コロナによって「芸術」も変質するというのなら、それは社会に貢献し「社会のために」あった
芸術のことだろう。もし芸術のうちに社会が内在しているのなら、そのような作品はそうたやすく変質する
はずなどないではないか。
社会のために芸術があるのではない。社会のために芸術があってはならないと。これは現在でも生きている。
新型コロナによって「芸術」も変質するというのなら、それは社会に貢献し「社会のために」あったアートで
あり芸術のことだろう。もし芸術のうちに社会が内在しているのなら、そのような作品はそうたやすく変質する
はずなどない。それでも作品はたえず改まる。また芸術の概念は更新されながら、未来に芸術は孕まれるのだ。
もちろんリモートやオンライン化といったソーシャル・ディスタンシングによって、見る・聞く・読む・
演じることに関わる素材、手法や技法そしてその場所はさらに交錯し多様化するに違いない。
でもそれが「社会のために」人間が変わらねばならないのなら、そんな進化はむしろ不要だろう。
やはり人間の未来のために社会は変わらねばならないのだ。
演じることに関わる素材、手法や技法そしてその場所はさらに流動し多様化するに違いない。
でもそれが「社会のために」表現が人間が変わらねばならないのなら、それは進化という名の錯覚だろう。
やはり人間の未来のために社会は変わらねばならないはずだ。
はたしていまの新型コロナウイルスによって「この世界は一変した」のだろうか。
またあるひとが「コロナでも人はうなぎに並ぶという真理を得た」というのは、確かにうなずける
きょうは土用の丑の日。
きょうは変わらず土用の丑の日。
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