元村正信の美術折々/2020-07-15 のバックアップ(No.1)


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美術折々_286

その気にさせてくれるもの


一瞬にして話題となりそして風塵のように去っていった『盗めるアート展』( 7月10日- 東京・品川区荏原の same gallery )。ネットはもとより新聞、TVにまで取り上げられた同展は、出品作品を買うのではなく、来場者が自由に即持ち帰ることのできる展覧会として企画された。

セキュリティは置かず、24時間無人で営業し「全作品が盗まれ次第展示は終了」とする予定だった。まだことし3月にオープンしたばかりの新しいギャラリーの試みだ。

むろん「盗める」といっても、だれでも持ち帰れることができる趣旨なので何も盗んだことにはならない。企画意図としては、既存のギャラリーや美術館における守られた空間と作品との関係を再考し、「アートのあり方を違う角度から考えること」にあったという。僕はけして悪くはないアイデアだと思った。

だが開けてみれば、オープンの午前0時まえにはすでに20〜30代の若い「観客」を中心に約200人が殺到し、作品は瞬く間に残らず持ち去られたという訳だ。詰め掛けた人が溢れ、深夜ということもあって近所からの苦情や交通の妨げにもなり警察まで出動という事態に。こうなるともう鑑賞や作品がどうのこうのと言う問題ではなくなる。持ち去られた「作品」はメルカリで転売までされているという。法的には窃盗品でも買ったものでもないから「転売」というのも変な話しなのだが。

ひとつには、『盗めるアート展』というタイトルのシャレが効いていたから、このような結末になったことはあるだろう。そしてまた押し寄せた観客は、アートや作品への関心よりも「盗める」という響きにエンターテイメントや発散性を感じたのかも知れない。一部にはハロウィンのように仮面や仮装もしていた観客もいた。

ではこの展覧会が「アート」のあり方に波紋を投じたかといえば、そんなことはかったはずだ。むしろアート以前の、人間というものの心理的抑圧や逆に蕩尽の矛先がときにこのような形を取って露わになったというべきか。僕はその時、コンビニを思い浮かべた。そしてもしコンビニに「全品無料の日」があったならと。

そうなのだ。きっとこの『盗めるアート展』と同じように、客は殺到しあっという間に全品持ち去られるに違いない。僕はそれこそ「アート」になるのではないかと思うのだ。そしてこれらの品もまた、いくつもメルカリで転売されることになろう。もちろんそれらが商品か作品かはまったく関係ない。タダのモノとしてどこかに流れるだけである。過剰なほどの商品が、ゴミのように溢れる作品が、蕩尽される一瞬のプロセスあるいは瞬間そのものとして。

そこにもし「価値」があるとすれば、それは瞬間の出来事あるいは愉快な楽しみの他に何があり、なにが残るというのだろうか。何も盗んではいないのに、なにか盗んだような気にさせてくれる。「アート」はその程度の体験、パフォーマンスとしても売り出され盗まれもする時代、ということになるのだろうか。