元村正信の美術折々/2020-05-30 のバックアップ(No.1)


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美術折々_276

あの濃密な時間だけがまだ

ある知識人は言う。「接触を避ける新しいコミュニケーションを創造する必要がある」と。
またある者は「人と人が出会う可能性を減らしていくことだ」と言う。

ではこれまでの人間どうしの親愛なる関係の蓄積や、向き合った会話の数々は何だったのかと。
そんなにいともたやすく、私たちは変われるのだろうか。

じゃあ、悲惨で欺瞞に充ちたこのひどい国も社会も、これで生まれ変わるというのか。
「新しい生活様式」や「新しい日常」と「新しい距離」によって、それらが帳消しにされるのか。
あるいは「日常」を取り戻すとはどいうことなのか。いまが異常だからか。たしかに異常だ。
だがこんな異常も当たり前とするなら、それもすでに充分に日常になっている。

もし「密閉・密集・密接」を避ける生活の慣習を、「新しいスタイル」というのなら。
それこそこれまでの人間の関係のすべては清算され、やがて崩壊するしかないだろう。
なぜひとは、場を求め、集い群れ、接し、体ごと表現して来たのか。
それはそうする必要も必然もあったからだ。

つまりそれらを改め更新するということは、これまでの人間の接触や移動の交流の仕方を否定的に
乗り越えねばならならないということになる。濃厚接触にたよらない社会の実現が目指されようとしているが。
人には頼らない、人を必要としない世界のありようが、巨額の無限赤字国債を抱えて試行されている。

あの濃密な関係とはいったい何だったのか。ときに性交であり恋愛であり家族であり
人と人との関係をそう呼んでいたのは、ついこのあいだのことだったはずだ。

もしかしたら、時が止まったのだろうか。
生産も消費も成長も労働もそして生も死も、あるにはある。
悦びも悲しみも苦しみも怒りもそして笑いも、あるにはある。
それでも無理やりに、すべてがただ虚しく空回りしているんじゃないだろうか。

世界は最悪だったあの頃に恢復するのだろうか。いや誰も最悪になんて戻りたくはないのだから。
もしも時が止まったのなら、私たちは時と時のあいだを生きて行くしかないのだ。
しかし時と時のあいだの距離を、いまだ誰も知らない。

ただ、行き場を喪った〈濃密な時間〉だけがその距離という間を彷徨っている。

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