元村正信の美術折々/2020-04-21 のバックアップ(No.1)


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美術折々_267

とがめられない「芸術」はありうるか

有水康司というある明晰な人が「科学などの実験の失敗は、世間では余り評価されませんが」、「芸術に絶対的な定義はありませんから、その失敗した実験のすべてを『芸術』と称しても、誰も咎められないわけです」とFBで語っていた。なるほどなぁ、と思った。

僕も長く芸術というものに関わっているが、芸術における「失敗した実験」を「誰も咎められない」という指摘は新鮮だった。これはつまり、芸術の定義できなさにおいて、失敗も成功にも基準がないということだ。あのデュシャンをはじめ、これが芸術といえば芸術になる世界の評価というのは、いつだって後から決まる。初めから作品が生まれた時から評価が決まっているのではない。この世に「傑作」と称されるものは少なからずあるが、それさえ厳密な規定がある訳ではないということだ。

しかしここには、ある落とし穴がある。「誰も咎められない」というのは、何でもが芸術になりうるし、逆にすべてが芸術にはなり得ないということにもなる。「失敗した実験」を咎められないことをいいことに、野放図に「作品」は生まれていく。芸術として表現される。もちろんそこに何の批評も批判も否定もないということではない。ただ芸術には、「芸術という咎められなさ」があるのは確かだ。それはかつて前衛と呼ばれたものの芸術への再帰、アヴァンギャルドの結末を見れば明らかだろう。そして行き着いた今のアートを思えば。

芸術の当事者、関係者は「誰も咎められない」、あるいは芸術は「誰からも咎められない」まま甘んじるなら、芸術は自閉し目的化し消失するしかない。「誰も咎められない」からあれほど芸術史はこの現在まで、無数の凡百の、芸術作品といわれるもので賑わい溢れ返っているのだ。

過ちあやしまれる芸術のとなりに、また崇高なるものもあり、美も傑作も凡作も隣り合っている。「誰も咎めない」芸術は、自らを超え出ていかなくてはならないはずだ。でなければ、まさに「失敗した実験のすべて」だったと、未来は私たちの「芸術」を笑い飛ばすことになるだろう。