元村正信の美術折々/2020-03-04 のバックアップ(No.1)


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美術折々_260

(続) 死か、経済か。そのどちらでもなく

感染というなら店頭から消えたマスクはまだしも、トイレットペーパーは前回触れたが。こんなものもある。3月2日(月)付 毎日新聞夕刊には、あのカミュの小説『ペスト』が全国の書店で売り切れ続出。在庫がなくなり、出版元では急きょ4000部を増刷するとの記事が大きく載った。朝日新聞は1万部とも報じている。今のところ数的にはベストセラーとまではいかないが、今回のウイルス感染でカミュを読むというより「ペスト」への関心からこんな現象となったようだ。

僕には、この店頭から消えたトイレットペーパーとカミュのペスト本が同じものに見える。どちらを買っても感染への不安が解消されるわけでも、それへの答えが出る訳でもないのになぜ無くなったのだろうか。購買層がおなじだとは考えにくいし、もちろん本を読んで何かを学ぶことに異論などない。いずれにしても間近な不安の心理が別の連想を、消費という衝動を促していることは言えそうだ。

でもこのカミュの『ペスト』は、よく言われるように伝染病や様々な悪に立ち向かう人々の連帯感や人間の不条理のみを描いたのではない。そのことをを最終部分においてカミュはこう表現している「おそらくいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びだし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差しむける日が来るであろうということを」。

時にたやすく、あっけないほど人は死ぬ。だが生物である細菌にしても生物かどうか分からないウイルスにしても、何度でもどんな時代においても突然再来し侵入し私たちをむしばむものだと、カミュは予告したのだろうか。たとえばカミュはそれに先だつ小説『異邦人』において、なぜあれほど圧倒的に「太陽」の光を賞賛したのだろう。そしてその太陽を自らふり払った。主人公のムルソーはフランス語の「死」と「太陽」の合成語だという。僕の独断でいうなら、カミュにとって「幸福」はいつも「死」と隣り合わせにあり最後は互いにそれを重ね合わそうとしたのではないか。もちろん自身の戦災孤児としての出自と、二つの世界大戦が影を落としていることは否定しえないにしても。

ひとりの死、そして多数の幸福。それはまたひとりの幸福として、あるいは多数の死者と言い換えることもできる。だから『ペスト』もまた集団の死と幸福を対置させたのだと。現代ではそれを、死か、経済か、と問うこともできる。ひとりと多数はどこまでも折り合わない。メルソーが犯した『幸福な死』もまた、ムルソーが「太陽のせい」にした〈無実〉のための許されない理由なのではと思ったりする。

カミュからすれば未来の、私たちには現在のこの世界。その「どこかの幸福な都市に彼らを死なせに」訪れているもの。そして店頭から消えたもの、日常に不足するものの光景が、私たちの「死」を寓意するものなのか、あるいは「経済」の欺瞞を嘲笑しているのか。
そのどちらでもなく、と言える時がくればいいのだが。