元村正信の美術折々/2019-11-23 のバックアップ(No.1)


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美術折々_242

真に擬人化されたモノ

きょうの晩秋の澄んだ空のように、本当にそらは真っ青に晴れ渡っていたのだろうか。
たとえば次々と仕事を奪われ続ける人間たちにとっても、そらは同じように青いのだろうか。
それは見えない汚染や微細な虚偽欺瞞にいろどられた青空ではないのか。
またそれは、この夜だっておなじことだろうけれど。

人間のいとなみを効率化すればするほど、人間は不要になっていく。
だれもがじぶんの意志で生まれた訳ではないが、もしそれ以前の意志によって
こどもが必要とされないのなら。彼らはどう生まれればいいのだろう。

あと120年もすれば、推計では15歳未満の日本の子供は限りなくゼロに近づいていることになる。
生涯現役、人生100年時代とは、仕事も出生も奪われ続け残された人間たちが、過剰ゆえの
不老不死によって死に切れないまま老いていく時代の、生活の労働の虚しい指標なのである。

仕事も人間も不要で、必要な仕事と人間とはだれなのか。それはまさに真に「擬人化」されたモノを操る
「新しい人間」たち。いや、もはやそれを人間と言っていいのだろうか。

ではその時、必要でない芸術と必要な芸術があるのか。もしあるのだとしても、それは一体だれが決めるのか。
じゃあだからといって、すべての芸術が必要であろうはずもない。だって、すべてが芸術ではないから。

しかし、「芸術ではない」ということは大事なことだ。なぜななら、そのことが逆に「芸術」というものがある
ということを暗示するからである。それでもそれを「芸術」と一体だれが言い切れるのだろうか。

未来の芸術もまた、「擬人化」されない保証などどこにもない。真に擬人化されたモノたちが作る芸術。
いやもうそれを芸術とよぶ必要もないのかも知れない。芸術の、人間の不在とは、「人間」がいないのではなく
真に擬人化されたモノによって、この世界が覆い尽くされている光景なのではないだろうか。


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