元村正信の美術折々/2019-08-10 のバックアップ(No.1)


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美術折々_224

(続)ただそこでも、自由の定義が問われている

けっきょくこの国の8月は、「平和への祈り」の前ではみな沈黙を強いられるのだろうか。
この74年間の〈敗戦後〉とは、こういうことだったのか。沈黙への従属への圧力だったのかしら。

そんなこの国は、ほんとうに平和なのだろうか、いや平和ではないから「祈る」のだろうか。今回の不当な
「抗議の声」とはいったいどこから来たのだろう。そこの「芸術」なんてどうでもいいさ、たかが芸術の祭り
だろ、この国の「平和」を乱すものこそ許せないという感情の排他的突出がそこにある。そしてだれもがその「抗議」にたやすく屈してしまう連鎖。この問題は、「あいちトリエンナーレ2019」のすべての作品を離れ、神戸のシンポジウムまで蹴散らし、表現への問いをもすっ飛ばして、只々「平和への祈り」に収斂していく。
5日、香港の政府への抗議デモでは148人が拘束され、ゼネストには35万人が参加しているという。これに比して日本の無抵抗な平和は自滅以外の何ものでもない。

かつてスタンダールは「美は、幸福の約束にすぎない」と言った。たとえばここで、「美」を「平和」と言い換えてみてはどうだろう。「平和は、幸福の約束にすぎない」と。さらにアドルノは「芸術は幸福の約束であるが、その約束は守られることがない」と断言している。

守られることがない約束。それを幸福といい平和といい、芸術というなら。もし芸術という表現に「自由」が
あるなら。それは守られることがない、ということになるだろう。ただし、幸福とも平和とも芸術とも私たちは〈契約〉を交わした訳ではない。だから期待は、祈りは、約束は、簡単に裏切られるのである。

もう一度いっておこう。幸福への平和への祈りにではなく、表現に拘束されることのない〈自由〉を、
表現〈からの〉自由を。そして守られることがない〈約束〉に、祝杯を。