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美術折々_221
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ロードコーン断章
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今ではどこでも見かけるあのロードコーン、通称カラーコーン。
でもこうして立っているものと、倒れているものとを一緒に見せられると、改めていろんなことを想像したりする。
今ではどこでも見かけるあのロードコーン、通称カラーコーン。でもこうして立っているものと倒れているものを一緒に見てしまうと、改めていろんなことを想像したりする。
フランスの詩人で哲学者のミシェル・ドゥギーは、「高みが身を起こすには、低みのその下にあるものからの支えが不可欠である。高さが維持されるのは、低いところを起点にして積み上がっていくことによってのみである」(『崇高とは何か』1999年)と語っている。
フランスの詩人で哲学者のミシェル・ドゥギーは、「高みが身を起こすには、低みのその下にあるものからの
支えが不可欠である。高さが維持されるのは、低いところを起点にして積み上がっていくことによってのみで
ある」と語っている。(『崇高とは何か』1999年、法政大学出版局)
このふたつのカラーコーンは小さいけれど。立つことと倒れることが破壊されないまま、同時にそこに在る。ここでは、高みの尖った先端は互いに別々の方向を指しているのだが、そのひとつはせっかく身を起こした高みが、その低みもろとも倒れている。ドゥギー的にいえば「その下にあるものからの支え」から見放されたのである。
このふたつのカラーコーンは小さいけれど。立つことと倒れることが破壊されないまま、同時にそこに在る。
ここでは高みの尖った先端は互いに別々の方向を指しているのだが、そのひとつはせっかく身を起こした高みがその低みもろとも倒れている。ドゥギー的にいえば「その下にあるものからの支え」から見放されたのである。
では、立っているもののみが「崇高」の条件をそなえているのだろうか。もっと巨大な塔のようなカラーコーンを思い浮かべてみよう。岡本太郎のあの「太陽の塔」よりも大きなものを。じゃあ、倒れてしまっただけの無傷の巨大な塔は、まさに地に臥したと嘲笑されるのだろうか。それは天を仰ぎ指すものか、それとも地を這うように地の果てを指すのか。
では、立っているもののみが「崇高」の条件をそなえているのだろうか。もっと巨大な塔のようなカラーコーンを思い浮かべてみよう。岡本太郎のあの「太陽の塔」よりも大きなものを。じゃあ、倒れてしまっただけの無傷の巨大な塔は、まさに地に臥したと嘲笑されるのだろうか。それが天を仰ぎ指すものでなければ。地を這うようにしてその果てを目指すものに崇高さはないのだろうか。
いずれにしても、カラーコーンは大地に根ざすことのない現代の空虚なデラシネに違いない。先端の高みよりもさらにその低みよりも下にあるはずの支えは無く、空洞それ自体が小さな塔としてのカラーコーン。でもこれは、ほとんど私たちのことかもしれない。ただそれは立っているか倒れているかの違いにすぎないのだ。むしろ無傷であろうとすることに、私たちの日々の極度な不自然さやアーティファクト化するこの現実を見る思いがするのだ。
いずれにしても、カラーコーンは大地に根ざすことのない現代の空虚なデラシネに違いない。先端の高みよりもさらにその低みよりも下にあるはずの支えは無く。空洞それ自体が小さな塔としてのカラーコーン。
でもこれはほとんど私たちのことかもしれない。ただそれは立っているか倒れているかの違いにすぎないのだ。むしろ無傷のままであろうとすることに、私たちの日々の極度な不自然さやアーティファクト化するこの現実を見る思いがするのだ。
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