元村正信の美術折々/2019-06-01 のバックアップ(No.2)


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美術折々_212

だれが好んで捨てようか


たとえば、親と子のあいだの埋まらぬ哀しみ。5月30日付 西日本新聞朝刊文化面の、小説家・村田喜代子の
連載エッセイ『この世ランドの眺め』の中で「昭和万葉集秀歌」(1984) から引いた歌にこんな一首があった。

「泣き声も立てなくなりし吾子よ死ぬな死ねば貨車より捨てねばならぬ」 梶原徳子
                              [注]吾子(あこ):わが子、自分の子

1945年、日本の敗戦によって戦争は終わったのではなく復讐の名においてなおも続行されていたのだ。
ここにも中国満州から日本へ生死を賭けて逃れ引き揚げていく母と子が非情にもいま切り離されんとしている。
死ぬな、と叫ぶ母の声が貨車に響く。

それから8年後、僕はこの日本の片隅で泣き声も上げず逆子で生まれた。その反動だろうか、中学に入るまで毎日泣かない日はなかった。泣いてばかりのそんな子を、ついに父はある日「捨ててしまえ!」と母を怒鳴り付けた。それでもある夏、父に連れられいちどだけ、なぜか客車ではなくあの引き揚げ者たちのように貨物列車に
乗り、北九州の八幡から関門海峡を抜け鹿児島線から山陰線で下関の安岡海水浴場に行った記憶がある。
行ったといっても海の記憶はなく、ただ「安岡」という地名と「貨車」に乗って行ったことしか思い出せない。

「少年のわが夏逝けりあこがれしゆえに恐れし海を見ぬままに」 寺山修司

でもなぜその時、父はわざわざ日本海に面したそれも本州の海水浴場に僕を連れ出したのだろう。もしかしたら、泣いてばかりの僕を父は〈どこかで〉捨てたかったのだろうか。いまとなっては知るすべもないが。

先にあげた梶原徳子の歌が、父と二人切りの数少ない日のことをふと思い出させてくれた。
いまも僕は〈泣き声〉を立ててばかりだけれど、それは生きていることの証しでもあるのです。
逝った父よ。