元村正信の美術折々/2019-04-30 のバックアップ(No.1)


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美術折々_206

だれもが否定されてはならない、生存の真っ只中で

この「10連休」は、どこもかしこも平成の終わりだとか令和の始まりだとかで、私たちの小さな島国は騒がしい。でも確実に若い世代ほど、元号へのこだわりは統計上でも減少傾向にある。元号の必要性やそれへの執着意識は、おそらく未来のどこかでほとんど消えて行くことだろう。あの外務省の文書の年表記ですら読み換えの煩雑さから、外相は今後省内のこれまでの元号表記から西暦メインへと転換を指示したほどだ。合理性と快適性を追求する人間のひたすらな進化は、それが幸不幸のどちらであろうと誰にも止めようがない。

だが一方で、国家や社会がどのように国民を市民をその権利と義務において保障し縛ろうと、その支配にはおのずと〈限界〉というものがある。私たちの自由と不自由とが、つねに二律背反であることくらいはみんな分かっている。共同幻想である国家がなおも存続しながら、同時にあらゆる局面において破綻や崩壊を体現しなければならないのはなぜか。それはこの社会というシステムが私たちの生存を、生を奪い、どこまでも虚偽と欺瞞そして偏った分配と搾取によって持続運営され、終わらない成長を分裂的に〈約束〉しようとしているからではないのか。

だから、ニーチェが「芸術は、生の否定へのすべての意志に対する無比に卓抜な対抗力にほかならない」といってあれほど〈芸術〉に期待したのは、アドルノが言ったように「芸術にとって本質的な社会関係とは、芸術作品のうちに社会が内在していることであって、社会のうちに芸術が内在していることではない」。つまり芸術は社会と非現実的にあるいは非社会的に関係することはできても、間違っても社会から生まれるものではなく、芸術はすでに社会というものを孕んで生まれるものだ、ということである。このことで言えば、批評家の東 浩紀が「芸術は社会の鏡である。社会が多様化すれば芸術も多様化するし、作家の社会的背景も多様化する」(『AERA』巻頭エッセイ 2019年4月29日・5月6日合併号)と語ったことは、むしろ社会のツール(道具)となり下がった芸術や作家というものの、現在の堕落振りを皮肉にも指摘したことになろう。

かといって、小説家の東山彰良が言うように「あらゆる芸術は、絶対的な価値観に対する挑戦である。確固たる価値観のなかで、つまり多数派が支配する領域では生きづらい人々が自らの生存場所を勝ち取るための闘争、それが芸術だ」(『東山彰良のぶれぶれ草』4月19日付 西日本新聞朝刊文化面)であるにしても、彼自身がいうようにすでにあらゆる価値観は相対化されているのだから、僕などはそれほどほど楽観的にはなれない。もし「芸術の存在意義」があるのだとするなら、揺らぎ続ける価値観に対してではなく、私たちの生存を否定しようとするものすべてに対する〈抵抗〉を、その思考と作品において結晶化することができるかどうか、ではないだろうかと僕は思っている。