元村正信の美術折々/2019-03-10 のバックアップ(No.2)


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美術折々_197



私たちという〈混沌〉を

もうすぐ「平成」という時代も終わる。
僕などからすればそれが何年で終わろうと、また永遠に平成のままであろうが、なんの関係もないのだが。

「平成」と呼び慣わしたこの日本の30年余の時代を、経済評論家の森永卓郎は2月初めのNHK NEWS WEBのインタビューで、ひと言で表わすならそれは〈転落と格差〉だったと評していた。少しだけ抜き出してみよう。たとえば、世界に対する日本経済のGDP(国内総生産)が1995年は18%だったのが、2018年には6%にまで落ちた。つまり世界でのシェアが20年余りで3分の1に転落したと指摘する。さらに格差で言えば、平成前半(1989年から2003年頃)の15年間は、正社員がリストラされ非正規化していく。つまり「下が拡大するという格差」だといい、いまも進行しているとする。そして平成後半(2004年頃から2018年)の15年程は、「富裕層がとてつもなく増えたっていう形の格差拡大」だというのだ。

それについてこんな例を引く。フランスのあるコンサルティング会社が出している『ウエルスレポート』の中に「世界富裕層報告」というのがあって、日本には1億1000万円以上のお金を自由に動かせる資産をもっている富裕層が、なんと316万人もいるのだ、という。これはアメリカについで世界第2位で、中国よりも多いらしい。しかも「この300万人もいる富裕層の大部分が、実は働いていないんです」ともいう。「これね例えばクラスが40人だとすると1人か2人はその富裕層の子どもがいるっていう勘定になるんですね」、「だけど、みんな認識していないですよね。(中略)接点がないんだと思うんです」。

なるほどなと思った。たしかに僕の身の回りの知り合いを40人ほど思い浮かべ見渡しても、1億1000万円以上のお金を自由に動かせる資産を持っていそうな、かつ働いていない「富裕」な人はいそうにない。もし居たらすみませんが。森永が「接点がないんだと思う」というのはつまり一生の、生まれてから死ぬまで生活圏がまったく異なる、出会わない、ということだ。40人に1人か2人は富裕な人がいるのに、出会わない。広大な中国大陸ではなく、この狭い島国日本のことなのに。出会わないはずである。学校、仕事、衣食住の場所すべてのテリトリー、生活圏が違うのだ。生まれてから死ぬまで一生出会わないであろう、富を抱えた人間たちの集合がここにある。

しかしである。この〈転落と格差〉こそつくられた幻想なのではないだろか。何が「転落」で、なにが「格差」なのか。それが数字に、統計上に出ているからか。ではどこで私たちは、僕は転落したのだろうか、格差化されたのだろう。この国の名においてか。あるいは、芸術なんぞに関わったことか。ずっと金がなかったことか。聖人君子になれなかったことか。人を裏切ったことか。罪を犯したことか。法に背いたことか。人間ではないことか。

どこまで問いつめても〈転落と格差〉そのものに基準や根拠は見い出せない。なぜか。それはありもしない幻影、幻想だからだ。僕にいわせると、虚偽であり欺瞞の言説だからである。
現に貧富の差はあるではないか、といわれるかも知れない。もちろん能力も収入の差も当然あるし身体美醜の差もある。しかし本当はそれらが渾然となって交じり合い〈混沌〉そのものとしてあるのが私たち人間の実相ではないのか。「接点がないんだ」ではなく、接点が〈なければならない〉のではないだろうか。

接点さえあれば、〈転落と格差〉などおそらく語られることもないはずだ。「平成」という時代の終わりによって、それらを〈幻想〉させて欲しくはないものだ。それとも、「接点」こそがそ幻影なのだろうか。